1945年8月20日、ソ連軍による、真岡郵便電信局事件が起きました。


学校では教えない ~本当の日本の歴史~ 


真岡郵便電信局事件とは樺太真岡郡真岡町に、

ソ連軍が艦砲射撃を行って侵攻した際、真岡郵便局電話交換手、

(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)

の女性12名のうち9名が自殺(自決)し3名が生還した事件です。

注目すべきは、その日付です。

日本が敗戦したのは8月15日、

真岡郵便電信局事件が起きたのは8月20日。

つまり戦争が終わってからソ連は侵攻してきたのです。


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1945年8月16日、

真岡郵便局の朝礼で残留交換手に関する説明がなされました。

主事補の鈴木かずえさんは緊急疎開命令が出されて、

職場を離れる交換手が出ている現状を話し、

仮にソビエト軍が上陸しても電話交換業務の移管が

行われるまでは、業務を遂行しなければならないと前置きし、

残って交換業務を続けてもらえる人は、一度家族と相談した上で、

返事を聞かせてほしいと言いました。


鈴木さんの言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現しました。

8月20日の早朝、ソ連軍艦接近の報告が入ると、

高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡したのを始め、

局幹部に緊急連絡を行いました。

緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎氏は電話交換手、

志賀晴代さんに出勤を求め、電話交換手は12名となりました。


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非常事態に際し局員の方々は郵便局へと向かいましたが、

ソ連軍の攻撃は激しく、

民間人に対しても見境のない攻撃が加えられました。

電信受付の折笠雅子さんは郵便局へ向かう途中射殺され、

避難した防空壕に手榴弾を投げ込まれて爆死した局員などもいました。


このような民間人虐殺は、明らかな国際法違反であり、

ソ連の戦争犯罪です。


上野班の交換手だった藤本照子さんも「決死隊の一員として、

空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、

ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした」

と語っています。上田局長も郵便局へと向かいましたが、
栄町二、三丁目の十字街で避難民が背後から撃たれて、

山膚を転げ落ちるのを目の当たりにしました。


十字街には局長の他5、6人が釘付けされていましたが、

そのうち真岡署木村巡査部長が弾丸の中を駆け出し、

局長の目の前で撃たれて倒れました。局長と由田与三吉氏は、

巡査部長を家の陰に引きずり込もうとして路上に飛び出し、

局長は左手に貫通銃創、由田は右足に盲管銃創を負いました。


局長は由田氏らと図り、若い男に棒の先に白布を縛り付けさせ、

ソ連兵の目に触れるように振らせました。

これにより、局長らは助かったものの、

直ちに海岸の倉庫に連行されました。


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緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、

2艘の舟艇が上陸を試みてきました。

ソ連軍艦からの艦砲射撃が始まると、真岡郵便局内も被弾するようになり、

電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立する事となりました。


高石班長が青酸カリで服毒自殺、

続いて代務を務める可香谷さんが自殺。

この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ或いはモルヒネで自殺しました。

この間、電話交換手は、泊居郵便局、

豊原郵便局などに電話連絡しています。

この後、伊藤さんは、既に7人が自殺し、

自分も自殺する事を泊居郵便局に連絡。

更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をしました。


この時点では、伊藤さんのほか境さん、

川島さん、松橋さん、岡田さんの4名が生存していました。

伊藤さんは、続いて、内線電話で電信課へ自殺を連絡し、自ら服毒自殺。

この時点で、松橋さんも自殺をしていたので、自殺者9名、

生存者3名となりました。

急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、

境さん、川島さんの2名を救出し本館へ移動しました。


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北海道稚内市の稚内公園にある

「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」

はこの事件を慰霊するものです。

自殺した9名は公務殉職として、

1973年(昭和48年)3月31日付けで、

勲八等宝冠章を受勲しました。

また、靖国神社に合祀されています。


この事件はソ連は日本が敗戦しているにも関わらず

侵攻してきた事と、白人国家が今までの歴史の中で戦利品として、

女性を辱めてきた事から起きた事件だという事実を、

忘れてはならないと思います。