哲学カフェが終わった後、
たとえば家に帰ってから
悶々とすることが多いのは、
私だけではないでしょう。

「ああ言えばよかったなあ」
「なんで言えなかったんだろ」
「あのときの、あの人の、あの発言が
頭から離れない。なんでやろ?」
「あんなこと言って、恥ずかしいなあ」
「取り消したいなあ」
などなど。

なかでも
「なんで通じないんだろ?」
「わかってもらえないんだろ?」
「伝わらないんだろ?」
という思いがあるとき、
悶々の悶々度が上がります。

その悶々は、きっと
「あなたの考え」
を育てるでしょう。

この世界で、あなたという人は
やはり二人いないのです。

あなたの考えと似たようなな考え方はあっても、
「似ている」と「同じ」は、違います。

他者は勝手に「だれだれと同じような考え」と分類するでしょう。
それは他者の自由なので、
こちらにはどうしようもありません。

だからといって、あなたの考えは
あなたの考えであることに
変わりはありません。

その、あなたの考えはどういうものなのか、
それはうまく伝えられなかったときにこそ
あなた自身にわかってくるのでしょう。

そして、それを他者にもわかっておうと、
他者にも伝えたいと、
そう思うからこそ、
他者にも通じることばを探したり、
新たに作り出したりするのです。

哲学カフェが終わった後、
きっと多くの参加者が
このような作業を
こころのなかで、
あるいはノートをつけたりしながら、
おこなっているのだろうなあ、
と勝手に想像しています。

その悶々の結果は
次回の哲学カフェで
活かされる場合もあれば、
活かされない場合もある。

哲学カフェの場で活かされなくても、
どこかで活かされれば、
それで十分なんですけどね。

全然どこで活かされなくても、
それでもむだではない
と思うのですけどね。

むだかもしれないけれど、
いろいろ考えたい人が
哲学なんてするのでしょう。

むだなことは一切したくない
という考え方ぐらい、
悲しい考え方はないように
思います。