これらの二つの史料は、江戸時代の文政年間(1818~1831)に幕府が寺社の来歴や記録を提出するように命じた際に収集した資料である『御府内備考(ごふないびこう)続編』に載っています。
両方とも首塚は将門公の墓所であるという点では一致していますが、年月を経ているために伝説だったり、推測だったりして、将門公の亡骸が塚の中に納められていたのが事実だったのかどうかはハッキリしません。
江戸時代を通して将門塚は大名の屋敷内に保存され、神田明神の大祭には神輿を邸内かつぎ入れ、将門塚に幣(ぬさ)を奉り、神楽を奏して、将門公の霊魂をとむらったといいます。
昭和15年(1940)に落雷で大蔵省が全焼するまでの大蔵省構内にあった時代にも、塚の前に神輿を据え、奉幣の儀を行った後、将門公の霊を慰めるための神輿振りを行いました。
神輿を荒々しく振りまわし、ほうり上げるので、そのすさまじさは恐ろしいばかりだったといいます。
ご神霊には
奇魂(くしみたま)・和魂(にぎみたま)・荒魂(あらみたま)・幸魂(さきみたま)という四つの要素があり、その中の荒魂がお祀りされているのでしょう。
荒魂は荒々しさと勇気を司っていて、忍耐力や勇猛心となって発揮されます。
将門公が立派な武将だったことも考え合わせると
将門塚のご利益は“勝負運向上”であり、激しい経済競争に勝ち抜くビジネスマンや、武道やスポーツなどの選手にとっては大変ありがたいご神徳といえるでしょう。