○『浅草日輪寺書上』より

 

浅草日輪寺は昔は天台宗で、了円法師という僧侶が今の神田橋内の芝崎村という所に創建しました。

それから百年ほど経った承平の乱〔=平将門の乱〕の後、将門公にゆかりがある者の仕業なのか、将門公の墳墓を建てましたが、年月が経ち墳墓はしだいに荒廃して、花ひとつ供える人もいなくなりました。

そのため亡霊が祟りをなして村人たちを大いに悩まし、病気や災難が数えられないほどたくさん起こります。

村人たちは怖がっていましたが逃れる方法がなく、ただ歳月が過ぎてゆきました。

 

嘉元年間〔=1303~05〕になり、時宗二代目の他阿真教上人が東国布教のために村を訪れます。

そこで村人たちは亡霊をなだめることをお願いしました。

上人は将門公の霊に「蓮阿弥陀仏」という法号を授け、供養すると、霊魂の祟りが去り、死にそうな人たちもみんな快復しました。

この時、村人たちは上人を大いに慕って日輪寺にとどまってもらい、それ以後、天台宗を改めて念仏道場になります。

これによって世間に芝崎道場と名乗るようになりました。

将門公の霊は境内鎮守の明神に配祀し、神田一帯の産土神とし隔年の祭礼を欠かさず、今の神田明神がこれになります。(後略)

 

 

江戸時代は神仏習合だったので、日輪寺は神田明神を管理するために置かれた別当寺だったようです。