筑波山そのものの信仰の面では、鎌倉時代初期に常陸の守護だった八田知家の子・為氏が筑波氏を名乗り、のちに出家して筑波山中禅寺別当に就任して以来、筑波山寺は隆盛を誇るようになりました。

やがて江戸幕府が開かれると、筑波山が江戸から見て“鬼門”の丑寅(北東)の方向に位置することから、徳川家康は「鬼門封じの神」と崇め、筑波氏を外し、厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を筑波別当に迎え、知足院中禅寺を祈願所とし、筑波山の整備に力を注いだとされています。

家康に始まる筑波山の整備・拡充は二代将軍秀忠に受け継がれ、三代将軍家光のときに数多くの諸堂伽藍が建設されました。

江戸時代の筑波山は知足院中禅寺を中心とし、門前町が形成され、旅籠・宿坊が立ち並び、参拝客で賑わい、特に中禅寺大御堂のご本尊、千手観音のご開帳には多くの人が押し寄せました

なかには遊女を置く家などもあり、近郷近在はもちろん、庶民が憩い休める場として隆盛を極めたそうです