昨年、ユネスコの世界文化遺産にも登録され、日本人はもとより世界中の人からも注目されるようになった富士山ですが、以前のブログに建築史家の藤森照信氏の『東京路上博物誌』からの引用で、「富士山と江戸城と江戸の城下町を一つ軸の上に乗せるというのが、家康の
都市計画の構想だった」という説を紹介しました。

また、風水師の御堂龍児氏も『開運風水学』の中で、「東京が国際
都市として繁栄したのは富士山からの“龍”(大地のエネルギーが走る道筋)のおかげ」と言っています。

江戸の町が富士山を意識して作られたのならば、富士山に発する
大地の気のエネルギーを意識的に流入させようと計画していたのかもしれません。

ところが、江戸の山というのは富士山だけではなく、北東にそびえる“筑波山”もありました。

時代考証家の稲垣史生は『江戸考証読本 大江戸八百八町編』の中で、
「江戸には三千の坂があり、五千の橋があったといわれる。その何割かの坂と橋から、江戸市民は太田道灌のように、西南の空に霊峰富士を見ることができた。そればかりではなく、富士と正反対の北東の空には、古来艶めいた神話を持つ筑波山が望まれた。四季・朝夕によって色を変え、姿態を変える二つの山が、どんなに江戸市民を慰め、詩情をかき立てたことか。」と言っています。

何かと対比されることの多い二つの山ですが、“信仰形態”の上でも
明らかな違いがあったようです。