さらに天海僧正は、比叡山のように東叡山にも住職として皇子を迎えたいという
構想を持っていましたが生前は適わず、死後、四代将軍家綱のときに実現しました。
御水尾天皇の第三皇子、一品守澄法親王(いっぽんしゅちょうほうしんのう)が
東叡山・日光山の貫主になり、そして比叡山延暦寺天台座主にも就任し、三山
管領(さんざんかんりょう)の宮と称されるようになったのです。
そして、法親王が主に上野の寛永寺に居住していたため、寛永寺は江戸時代の
天台宗の実質上の総本山となり、ひいては宗教界全体の上に立つ存在となったのでした。
構想を持っていましたが生前は適わず、死後、四代将軍家綱のときに実現しました。
御水尾天皇の第三皇子、一品守澄法親王(いっぽんしゅちょうほうしんのう)が
東叡山・日光山の貫主になり、そして比叡山延暦寺天台座主にも就任し、三山
管領(さんざんかんりょう)の宮と称されるようになったのです。
そして、法親王が主に上野の寛永寺に居住していたため、寛永寺は江戸時代の
天台宗の実質上の総本山となり、ひいては宗教界全体の上に立つ存在となったのでした。
寛永寺開山堂(両大師)
