それまで「星野山(せいやさん)」という山号だった“川越の喜多院”が、「東叡山」に変わったのは、慶長18年(1613)に幕府が制定した、「関東天台宗法度」がきっかけでした。

これは、寺院法度と呼ばれる一連の法令の一つで、本寺・末寺の上下関係の確立などを内容とし、寺院を封建体制に組み込むことを目指したものでした。

そして、この関東天台宗法度の場合は、比叡山延暦寺との関係を規制する内容が含まれており、朝廷と密接な関係を保ちながら仏教界に君臨してきた天台宗の
勢力を二分することを意図したものでした。

この法度の制定により、喜多院は関東本寺としての地位を幕府により保証されたこととなり、めざましい発展を遂げていきます。

その後、寛永2年(1625)に寛永寺が建立されると、「東叡山」の山号は寛永寺に移され、喜多院はもとの「星野山」に戻ります。


つまり、「東叡山」という山号に込められているのは、天台宗を延暦寺と二分する
関東本寺としての地位ということになります。