江戸時代の聖天信仰真土山はかつてはもっと高い山でしたが、元和6年(1620)に日本堤の土手を築く際に削られた、と言われています。明暦3年(1657)に起こった明暦の大火以降、新吉原への遊女屋の移転が進んだことに伴って、ちょうど隅田川からの入口に待乳山聖天があったことと、江戸の川柳に「聖天は娘の拝む神でなし」と詠まれたように象頭人身の男女抱合像がご本尊であったことから、商売繁盛を願う吉原遊郭からの信仰が厚かった、と言われています。 広重名所江戸百景 待乳山山谷堀夜景