浅草名所七福神のHPによると、待乳山聖天の縁起について次のように記されています。
「古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。
この不思議な隆起は実は十一面観世音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい先触れであったのです。
それから6年後、天候不順に人々は悩まされていました。
永い日照りが続き、人々を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。
そのとき大聖歓喜天がご出現になり、こうした人々を苦しみからお救いになられたそうです。
それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。
そして、ここに当山の信仰の基礎が形成され、その後ますます民衆の尊信をあつめるに至りました。
ことに江戸時代元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されました。
以来、関東大震災、東京大空襲などにも遭いましたが今日まで篤い尊信は続いています。」
「古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。
この不思議な隆起は実は十一面観世音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい先触れであったのです。
それから6年後、天候不順に人々は悩まされていました。
永い日照りが続き、人々を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。
そのとき大聖歓喜天がご出現になり、こうした人々を苦しみからお救いになられたそうです。
それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。
そして、ここに当山の信仰の基礎が形成され、その後ますます民衆の尊信をあつめるに至りました。
ことに江戸時代元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されました。
以来、関東大震災、東京大空襲などにも遭いましたが今日まで篤い尊信は続いています。」