熊の会 熊野詣 ~Episode 8~

 

こんにちは!
こちらのブログでは“熊の会”3人による熊野詣記録をご紹介しています!今回は第8回目、「エピソード8」をお届けします。

●JRきのくに線 海南駅(JRきのくにせん かいなんえき)
今回のスタート地点はJRきのくに線(紀勢本線)の海南駅。駅前ロータリーに「鈴木姓発祥の地」という碑が立っていました。鈴木一族は、平安時代の終わりごろに紀伊半島の熊野から現在の海南市藤白に移り住み、熊野の信仰を全国各地へ広める取り組みをしたと言われていいます。


■第36番王子 祓戸王子(はらえどおうじ)
海南市は熊野古道のルートを分かりやすく表示してくれており、標示に従って進んで行くと迷わないのですが、祓戸王子の手前から山道に入り、思った以上に登った先にありました。この地は次の五躰王子のひとつとして知られる藤代王子社を控え、熊野の聖域への入り口として旅人が必ず垢離(こり)をとって身を清める場所だったとのことです。


●旧鈴木屋敷(きゅうすずきやしき)
前述のように熊野信仰を広める活動をした鈴木氏。こちらは全国の鈴木姓の総本家とも言えるお屋敷です。

前庭には源義経の弓立松などもありました。


■第37番王子 藤代王子(ふじしろおうじ)
熊野九十九王子社の中でも特に格式が高い王子社で、藤白神社内にあります。上皇・法皇の御幸(ごこう・みゆき/旅行)の時は必ず宿泊され、神前で法楽供養、白拍子舞や里神楽・相撲等が催されたといわれています。

本殿横にある藤白王子権現本堂には、熊野三座のご本尊である阿弥陀如来坐像(熊野本宮)・薬師如来坐像(熊野速玉)・千手観音坐像(熊野那智)の三体の像があり、三体が揃っているのはここだけとのこと。更にその両側には熊野の入り口を守る毘沙門天と不動三尊も祀られていました。関係者の方の説明で、藤原定家が記した日記「御幸記」に残る面白いエピソードを聞かせていただく事ができました。


●有間皇子の墓(ありまのみこのはか)
手元の説明資料によりますと、658年斎明女帝は有間皇子の勧めにより紀の湯(白浜温泉崎の湯)に御幸した際、その時の留守官であった蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間皇子に謀反をそそのかし、皇子は邸を取り囲まれ紀の湯へ護送され、中大兄王子(なかのおうえのおうじ)の激しい尋問にあい、都へ還される途中この地で絞殺され19才の若い命を落としたとの事です。飛鳥時代のお話しです。「家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」の皇子の詩が刻まれています。


●筆捨松(ふですてまつ)と硯石(すずりいし)
案内表示に従って道を左へ。急な石段から山道に入って行きます。藤白峠の入口です。こんな山道があるならトレッキングシューズを履いてくればよかったと後悔…。幻想的な竹林、そして和歌ノ浦を一望できる所を進んで行くと筆捨松の案内板が見えてきます。筆捨松の石碑は案内板の後方の山肌に。平安末期の宮廷絵師、巨勢金剛(こせのかなおか)が熊野権現の化身の童子と絵の描き比べをして敗れ、慢心を戒められ、絵筆を投げ捨てたという伝説の地です。

そして「筆捨松」にちなんで紀州徳川藩主頼宣(よりのぶ)公の命により、後に自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられる「硯石」がすぐ近くにありました。



■第38番王子 藤代塔下王子(ふじしろとうげおうじ)
お経を石に置き換え積み重ねられた石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)を左手に見て過ぎると開けた場所に出て、地蔵峰寺(じぞうぶじ)に到着。境内に藤代塔下王子跡地の碑が建っていました。

そして裏手を登ると白川上皇が熊野御幸の際に休息をとったという「御所の芝」が。上皇は「この地熊野第一の美景なり」と詠まれたとか。



境内横にあった木製ベンチで昼食タイム。今日の行程には飲食店は無いため、出発前に買ったパンやおにぎり。かなりきつい峠でしたが、お腹を満たすことで少し力が戻ってきました!

■第39番王子 橘本王子(きつもとおうじ)
車道でも行けるのですが、案内表示に従って、みかん畑の間を通る細い下り坂へ。途中枝葉が覆いかぶさり、歩きにくい所も。そこを抜けるとまた車道に出ました。歩きやすくなって話しをしながら進んで行くと、案内板を見落とし。数十メートル戻って本来の進行方向に向かって右に入った所に橘本王子跡のある阿弥陀寺がありました。この王子は江戸時代に荒廃し放置されたままでしたが、現代、地元の敬神家の努力で橘本神社の合祀社となったとのことです。



■第40番王子 所坂王子(ところざかおうじ)
加茂川にかかる木製の橋を渡りしばらく進むと橘本神社がありそこが所坂王子跡。みかんの原種となる橘(たちばな)の木が植えられており、説明書きに「今から千九百年前、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇(すいにんてんのう)の命をうけ常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)はこの橘樹(たちばな)であり今のみかんの原種であります(古事記・日本書紀に記す)」とありました。


■第41番王子 一壺王子(いちつぼおうじ)
こちらの王子は、現在では山路王子神社となっています。毎年10月の秋祭りに幼児の「泣き相撲」が奉納されるとのこと。

境内横に小さな土俵がありました。テレビのニュースでは見たことがありますが、熊野古道の王子のある神社で開催されていたとは知りませんでした。


●蕪坂・拝の峠(かぶらざか・はいのと)
藤白坂に次いで熊野古道の難所蕪坂を登りきったところを「拝の峠」といい茶店があったとか。昔神武天皇ご東征(とうせい)の折、八咫烏(やたがらす)に先導されたのでこの名前がついたとの説明がありました。この峠、最初は車も通る道だったのですが、コンクリートの急坂になり、その先は山道へ。拝むように前傾しないと登れない坂と言う意味もあったのではないかと思いました。


■第42番王子 蕪坂王子(かぶらざかおうじ)
拝の峠のピークを越えたら車道に出ます。表示に従って進むと蕪坂王子がありました。この王子社は明治時代に、次の山口王子と共に宮原神社に合祀されましたが、平成元年、地元の愛郷会によって社が再建されたとのことです。


■第43番王子 山口王子(やまぐちおうじ)
紀伊宮原駅へ向かってゆるやかな坂を下って行くと、有田の町が見えてきました!そしてその先左手に山口王子跡がありました。公園として整備されており東屋があったので、休息と水分補給。この東屋の奥にわずかな石垣と手水鉢がありましたが、これが以前は明治40年に宮原神社に合祀された痕跡として残っていたようですが、最近公園の入口近くの元の場所に小祠が復元されとのことです。


山口王子を出て紀伊宮原駅方面へ。実はこの日、筆者の元同僚と約10年振りに会うことに。突然の誘いに答えてくれ、再会することができました!有田市特産のみかんジュースとえびせんのお土産まで用意してくれ、感激!
そしてお楽しみの打上げは"居酒屋 ゆうえん"で。馬肉料理がメインのお店でとても美味しかったです。夕方の時間電車が少なく、40分ほどで打上げ終了。もっとゆっくり味わいたかった~!



そういう訳で7月上旬の厳しい暑さのもとでの山越え14kmの道のりでした。前日までの天気予報よりも気温が上がったようで、体力を消耗。無理は禁物です。次回は有田川を越えて、味噌と醤油の街、湯浅まで。お楽しみに~!