22−012 プロ野球選手の至高体験:「ボールが止まって見える」の正体は?
こんばんは。昨夜に引き続き、今日もちょこっとブログを書いてみたいと思っています。今日は2月17日ですが、ふと、「今日は何の日?」というのが気になってwikipediaを調べたところ、「できごと」のトップに表示されていたのが、 1600年-ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられるだったのですよ。この方、昨日私がブログでこき下ろしたコペルニクスの地動説を支持したために、宗教裁判にかけられて火炙りにされてしまった気の毒な方なのです。奇妙な因縁を感じました。昨日のブログに書きましたけれども、高次元から見たときには天動説も地動説もなく、したがって地動説を主張する人を処刑する必要もないわけです。昨日のブログが、ブルーノ氏の鎮魂になるとよいなと思いました。型通りの言い方ですがご冥福をお祈りします。さて、昨日は何だか小難しいというか、一般には意味不明であろうことを書いてしまったので、今夜はプロ野球の話でも書いてみたいと思っているのです。かつて、大毎オリオンズ(現ロッテ・マリーンズ)に「榎本喜八」という名一塁手がいたそうです(私が生まれる前に引退した選手なのでリアルタイムでみたことがなく、伝記本でその活躍を知りました)。何だかバッターボックスで気迫漲るお姿ですね😅この方、日本のプロ野球界における1,000本安打、2,000本安打の最年少達成者なので、いつだったか、ジャイアンツの坂本勇人選手が2,000本安打を達成する際に、この方の記録を抜けるかどうかが話題にのぼっていたはずです。故・野村克也監督が、捕手として最も対戦するのが嫌な打者だったそうです。全く隙がない、というよりは、自分が最高のバッティングをすることだけに極限に集中しているので、相手投手がどういう球を投げてくるかなんてことすら眼中にない、という恐ろしい選手だったようです。駆け引きみたいなものが全く通用しない相手なのですね。私はこの方の伝記本を読んだのですが、印象に残っているのは、野球の練習、というか「鍛錬」に「合気道」を取り入れたという話ですね。「鍛錬」って書きましたが、本を読んでいきますとね、もはや野球選手というよりも「修行僧」って感じなんですよ。その求道精神が凄まじい。そして、それ以上に印象に残ったのが、現役時代のピークのごくわずかな期間だけれども、毎打席、ピッチャーの投げるボールが止まって見えたという話です。もはや「タイミング合わせる」ということすら、必要なくなったのだそうです。それはそうですよね、止まっているわけだから、タイミングも何もありません。では、それは一体どのような状態だったと我々は理解することができるのでしょうか。当然ですが、相手投手も、守っている野手も観客も、他の人にはボールが止まっているようには見えなかったでしょうから、榎本選手だけにその現象が起きていたわけです。おそらく比喩や誇張ではなく、「榎本選手の世界」においては本当にボールが止まっていたのだと私は思います。ここで登場するのが、私が先日2月9日のブログで書いた、「本当の自分」がいる場所ということになります。昨日のブログで「パラパラ漫画」の譬え話を書きましたが、我々がいま目の前に見ている「物質世界」あるいは「3次元の現実」というのは、本当はパラパラ漫画のようなもので、次々と像を結んではすぐ消え、というのを超高速で繰り返している映像の世界なのです(と私には感じられます)。要はマトリックス。次から次へと移ろい行くはかない世界なんですね。だから、ピッチャーが投げたボールがその手を離れたら、僅か一瞬の後にはキャッチャーミットに収まっている。その短い刹那にボールの軌道を捉えて野手がいないところに打ち返さないとヒットにならず、ヒットが打てなければクビになってしまう。プロ野球選手というのは、大変なお仕事ですよね。でも、榎本選手には、(ごく短い一時期だったそうですが)ボールが止まっていたという。そこで一体何が起きていたのかというと、私の解釈するところは、「榎本選手はバッターボックスにおいて、物質世界を超えた高次元にアクセスしてしまっていた」ということになります。意識の位置が、我々がいまもどっぷりと浸かっている3次元物質世界から、より高次の「時間のない」世界にシフトしてしまったということですね。バットでボールを打つ一瞬の間だけ、潜在意識の方が顕在意識をおさえて表で活動するようになってしまったと言ってもいいかもしれません(うらやましい…)。おそらく榎本選手が味わった「至高の瞬間」は、プロ野球に限らず「超」のつく一握りの一流スポーツ選手や、音楽家、画家といった芸術家、その他ある方面で「道」を極めた達観者は経験しているのでしょうね。あるいは、普通の人でも、夢中になって何かに取り組んだ時に時間の感覚がなくなる、というのがそれに類する体験なのかもしれません。古神道にいう(日月神示でもそうですが)、「中今」に生きるというやつです。でもなぜ、その状態を維持できないのか、もしくはその状態に意識的に入ることが人間にはできないのでしょうか?ここが一番重要なポイントだと私は思っています。本当に「頑張った人」への「ご褒美」とでも言わんばかりに、「チラ見」しかさせてもらえないその素晴らしい世界。そっちに自由に行き来できるようになりたいと思いませんか?(私は思っています)その理由はどうも、「壁」があるからのようです。この宇宙の仕組みを正しく理解した上でそちらの世界へと移行するというのは、おそらく人類にとっての「最終のゴール」なのでしょう。だから、ある程度の人がそのような理解を共有するまでは「壁」が立ちはだかっていて、先に進めない仕組みがあるようです。そう、まさしく「壁」です。高次元への道を遮断するファイヤーウォール、あるいは「侵入禁止」の制札なんですよ。次回はもうちょっと、その「壁」について書いてみたいと思っています。では、今夜はこの辺で。Auf Wiedersehen!