H.ダーガーのピュアで狂気な世界「非現実の王国で」

　もう何年も前になるが、世田谷美術館で「パラレル・ヴィジョン展」というのを見た。
　パラレル・ヴィジョンというのは、ちょっと精神を病んだ人たちが見た世界という意味らしい。
　その展覧会で初めてヘンリー・ダーガーのことを知った。
　ダーガーの絵はいっけんすると、子供のぬり絵みたいな絵だ。稚拙といえばこんなに稚拙な絵はない。それなのにミョーに心に残る。何度でも見たくなる。日本でも展覧会のあとで、豪華な画集が出版されたり、小説の表紙(桐野夏生の「リアルワールド」)などに使われているので、見たことのある人もいるのではないだろうか。
　ヘンリー・ダーガー(1892-1973)は少年時代には知的障害者の施設にいたこともあるらしい。だからまともな仕事にもつけず一生を病院の雑役夫をして暮らした。孤独で人づきあいもほとんどなかったらしい。
　死後、アパートの大家がダーガーの部屋に入って驚嘆した。そこに残されていたおびただしい絵と何万枚にも及ぶ少女十字軍の物語の原稿…。それは虚構の王国で、奴隷にされた少女達を救うべく立ち上がったヴィヴィアン姉妹という美少女戦士と少女軍の物語だった。絵はすべてその少女たちの戦いを描いたものだ。
　ダーガーは一生を通じて、誰にも知られることなく、信じられないくらいの量の少女たちの戦いの物語を書いたのだった。生きているあいだ、それらの絵や小説が人目にふれることは決してなかった。
　ダーガーがどうしてそこまで少女達の話に入れ込んだのか、誰にもわからない。人づきあいを避けたダーガーには語るべき相手もいなかった。
それはもしかしたら幼少期に両親から聞かされた話なのかもしれない。あるいはもしかしたら死んだ妹でもいたのかもしれない。
　満足な教育も受けず、絵の才能も技術もなかったターガーは、奇妙な情熱につき動かされて、少女たちの戦いの物語を独自の方法で描いたのだった。それは新聞や雑誌に掲載されている物語の絵や写真を自分なりに写し取って、コラージュするという方法だった。
　私達が見ることのできるターガーの絵はすべて、そうやって模写とコラージュによって描かれた絵なのだ。そこにあるのは、絵画的な才能でも技術でもなく、ひたすら少女の物語を描きたいという情熱だけだった。
　ダーガーは少女達にこだわったが、決して現実の少女をモデルにすることはなかった。ある少女の裸体の絵にはペニスが書き込まれている。それはダーガーが女性のヌードを一度も見たことがないためだと指摘する評論家もいる。あるいは両性具有のつもりだったのか、そういうこともすべては謎だ。
　誰の目にとまることもなく、褒められようとかひと儲けしようとかそういった発想とはまったく無縁の場所で、ターガーは信じられないような世界を構築したのだった。その一生ははた目には孤独で貧しく惨めに見えたかもしれないが、もしかしたらとんでもなく贅沢で幸福な人生だったのかもしれない。
　何しろダーガーの住む世界には何千人という愛すべき少女たちが存在したのだから。

■ヘンリー・ダーガーのピュアで狂気な世界「非現実の王国で」