その一点とは、ニュアンスに富む文体の快き諧調である。渾然たる韻律の美である。この見解は、或は幾分趣味の問題に触れてゐるかもわからない。しかし『ベレニイス』の真価が、その一点で、戯曲の本質と結びつけられる時、「本質主義者」は、『フェードル』を選ぶ前に『ベレニイス』により以上の演出慾を感じるに違ひない。ここで注意すべきは、『ベレニイス』は、ラシイヌの戯曲中、最も「非劇的」な戯曲とされてゐることであります。「非劇的」必ずしも「非戯曲的」ならず、まして「非舞台的」ならずといふ、前章の論旨を裏書するために、此の例は極めて適切であると思ひます。
しかしながら、論者は一面に、近代主義的運動の功績と大なる未来とを信じ、あくまでも、その上に相当の期待をかけてゐるものであります。「演劇に革命の必要はない。古来の天才が、吾人の上に君臨してゐることを、吾人は寧ろ、光栄とするものである」といふ本質主義者の言に、論者は、やゝ片意地な、反動的な調子をさへ感じるのであります。たゞ、これは欧洲のやうな、殊に、今日の欧洲のやうな、目まぐるしい芸術的流行の渦中に於てこそ、スノビスムの旋風中に於てこそ、此の宣言は、力ある真理として響かなければなりません。
顧みて日本現代の演劇界を観ると、そこには何等の運動らしい運動はない。自ら主義を振りかざす必要は勿論ありませんが、現在の演劇をどういふ方向に導いて行かうといふ努力さへ判然と示されてゐないのであります。「より以上優れた演劇」を生むためには、今日の演劇に対して、先づ決定的な批判を下すことが必要であります。
