眠る世界と眠れない私
私は小さいころから不眠の気がある。それこそ自覚している分だけでも、少なくとも幼稚園児の頃から、他より眠ることを不得手としていたと思う。精神をぶっ壊した中高生の頃は薬で寝ていたが、ぶっ壊した精神をツギハギだらけでもなんとかそれなりの形にまで復元した今は、ちゃんと自分の自律神経の働きで眠るように努めている。努めているが、時折、私の脳みそはやはりぶっ壊れてしまっているようで、昏く静かに眠りについたこの世界に取り残されてしまうのだ。「眠れない」ことは大して苦痛ではない。ただ、皆が寝静まったこの世界で、まるで私だけが取り残されてしまったような、なんとも言えない空虚感がひたすらに苦しい。昼間はやらなければいけないことで溢れている。常日頃よりそういった「やらなければならない」ことが、すごく、すごく嫌いなのだが、夜は皆総じて眠ることだけがすべきことである(夜勤の方などそういったことは除く)。だからこそ、私には夜だけが幾分か呼吸しやすい、居心地の良い時間なのだ。しかし眠ることを不得手とする私は、ただ一つのすべきことが達成できないことがままある。これが何よりも苦痛であり、恐ろしくあり、耐え難い。「何もしなくてもよい」ことは、常に何かをせねばならぬと求められることよりも、余程苦しいことなのだと眠れぬ夜を過ごす度に思うのである。眠るはずの時間、眠るための時間に眠れぬ者は何をすればよいのだろうか。持て余した時間に、持て余した思考をひたすらこね回す。そして、大抵が下らぬ思考へと辿り着き、その思考もその思考をはじき出すに至った時間も、何もかもが下らないように思えてしまって、もう全てが下らないように思えてしまうのだ。生きていることさえも。閑話休題。眠ることが苦手な理由については、いくつか思い当たる節があるが、今夜の眠れぬ理由はひとえに明日の予定によるものであろう。明日は早く起きなければならない、と思うほどに、どうやらぶっ壊れた脳みそは滑稽にも焦るようで、寝なければならないと焦って焦って、結果として眠れなくなるのだ。本末転倒とは恐らくこのことであろう。眠る前に読んだ本の影響を受けてこのような文体で文を綴っているが、そろそろ自分の綴る文の拙さに羞恥が収まらぬようになったので、ひとまずここまでで。眠れない。