「少年飛行兵」に触れる

「少年飛行兵」に触れる

とある少年飛行兵をテーマにドキュメンタリーVTRを制作することになりました。難しいテーマです。難しいなりに紐を解いていき、少しでもいいものを作りたいと思います。その記録としてブログをかきます。

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ご迷惑があってはならないので、Sさんとさせて頂きます。
Sさんは、あの有名な少年飛行兵をうつした写真にのられている方です。
その写真は特攻前日に撮影され、少年達はみな笑顔を浮かべていました。

ご縁があってSさんのご実家にいくことができました。

そこで目にしたのはSさんの遺品でした。

これまで本や祈念館などで目にしたSさんの遺書や遺品は
すべて「轟沈」などが大きく書かれているなど
勝ち気というか強気の印象をうけるものでした。

しかしご実家で目にした物から、また違う彼の一面を見る事ができました。

ご実家へ書いた手紙はその勝ち気な振る舞いはほとんど見せず
自分が目にしたもの、感じた事を家族に伝えていました。

心配しないでください、僕は毎日このように楽しく悠々と暮らしていますよ。

という感じです。

時には年の離れた妹に向けて贈り物をしたり、
あの大きなことを書く少年の姿はどこにもありませんでした。


最後の彼の姿を目にした方々がご実家へおくった手紙にも
最後の彼の、その優しい人柄を伝えていました。


軍人手帳には、押し花がありました。
花を愛でる少年だったのでしょうか。
それとも一瞬の気まぐれだったのでしょうか。

ご実家に今いらっしゃるご遺族の方には協力いただいて大変感謝しております。


ふつうの少年が、
特攻兵を志した時代です。

彼らの死を可哀想だとか言ってはならないと思いますが、
このような事を二度と起こしては行けないと思いつつ

世界ではびこっている戦争では少年が戦っているのかと思うと
心苦しくなります。
先日福岡でお会いした、元予科練で特攻兵だったNさん。
ATフィールド(心の壁)全開だった方です。

この前、電話がかかってきました。
「川棚にぜひ行って欲しい」

長崎県にある川棚町。
佐世保の近くです。

ここは水上特攻、震洋の訓練が行われた場所でした。
震洋の特攻隊員で訓練中に川棚で終戦を迎えたNさん。

特攻といえば、飛行機や人間魚雷が有名ですが、
ベニヤ板のボートに乗り込みそのまま敵の船につっこむ水上特攻がありました。
それが震洋。

戦局が厳しく飛行機を用意できない、でも徹底抗戦を止める訳にはいかない。

戦争という究極の極限状態の中で、憧れの飛行兵を目指したものの、
飛行機に乗ることも叶わず、このベニヤ板のボートに乗り、
散華した少年たちがいました。

この人偏屈なんです、と奥さん。

いかにも、九州男子な元海軍少年兵のおじいさんへのインタビュー。
今まで出会った話好き、伝えたい人とは違う。
だいたい私が聞かなくても勝手に話しだしていたが今回は初めてそうもいかなかった。

これまで
自らの体験をひろく発信してこなかったおじいさんだ。

明らかに人見知りをしていて無愛想。
心折れそうになるほど話す気なし。

こんなバカな若者と話してもしかたないとゆうかんじ。
お前らには何もわからんな感じ。
本音を一言ですませて理由は言わない。
掘ろうとしたら答えず呆れて笑われる。

気を使う奥様が度々通訳。

それに合わせて根気よく趣旨と意図を説明し、心の雪解け待つ。

「私があの時代に生きていたら私も兵隊を志願し、特攻も志願したと思います。」

この一言に嘘はなかったが、それを言ったら
突然ぽつりぽつりと話し始めた。
「ばってん」
そして質問せずとも話してくれ、
呆れて笑われることもなくなった。

そして、今まで私が聞いたことのない話を聞かせてくれた。

「特攻なんてやりたくなかった。誰だってやりたくない。」
なんでわからないんだ、という感じでお話をされる。

今まで話を聞いてきた陸軍の方々はみんな「行きたかった人」で
特攻に選ばれた人も「名誉だ!」といっていた人で
初めて「行きたくなかった」という人に出会った。

これは海軍と陸軍の違いなのか??

帰り際は玄関まで見送りしてくれた。
最後の方、ほんの少し笑っておられた。
九州新幹線の駅がある小さな町。
バスも見当たらず、駅からそちらのお宅にいくまでタクシーしかないらしい。

先日お電話をしたときも、Mさんは
「駅からタクシーで来なさい。@@といえば地元の人はみんなわかるから。」
と言っていた。

Mさんは、あるお寺さんの紹介で知り合う事ができた。
御年90歳で、元少年飛行兵。
私が知りたい年代よりも4つほど上の世代だ。
太平洋戦争の時代は20歳前後。
航空兵としてだけではなく、若い少年飛行兵に航空を教える教官でもあった。

初めて電話をしたとき、
あまりに声が若いので本人とはわからず、
息子さんかと思った。
声がしっかりしていて、よどみもなくお話をなさっていた。

お宅に着いたとき、奥様が庭を掃除なさっていた。
庭にはたくさんの花が咲き、
昭和らしい大きな家があった。

「おはようございます。今日お約束をしていた@@です。」
と声をかけると
「あ、、、ちょっと待ってくださいね~。」
と奥様に家の中までいれていただいた。

にこやかな柔らかい表情のおじいさんが家の奥から出てこられた。
お電話は何度かさせていただいたが、顔を見るのは初めてだった。

大きなお家の客間に通していただいた。
オレンジ色の光がさす、こぎれいで昭和のかおりがする部屋だった。
鳥取の祖父母の家と似ているな、と感じた。

お話して頂いた内容は、割愛させていただくが
少年飛行兵11期 空に憧れ、入隊した。
マレーにいったり内地でさらに若い後輩に当たる少年飛行兵に操縦を教えたり。
Mさんの教え子の一人が、犬を抱いた少年である荒木さん。
唯一の教え子での戦死者だった。
Mさんはマレーで終戦をむかえた。
荒木さんが亡くなったのを知ったのは戦後で内地で起こっている事は全く分からなかったそうだ。

お話をしていただきながら、奥様がお茶といちご大福をもってきてくださった。
朝、ここらでうってる一品だそうで
私なんぞのために買ってきてくださった。
そのあとも、イチゴやコーヒーを頂いた。

私はお邪魔をしている立場なのに、もてなされていた。
この心遣いに大変感激したのは言うまでもない。
お二人ともニコニコしていて素敵なカップルだった。

大変失礼な事に、私は去り際バタバタしてしまった。
次の取材先があるなかで、ギリギリまでお話を伺ったため
電車の時間に間に合うかどうかの時間になってしまったのだ。
逃げる様に帰る風になってしまった。
もてなして頂いたにもかかわらずこの失態は、言うまでもなく自分を恥じた。

Mさんは外まで見送りにきてくれた。
「また遊びにきてもいいですか?」
というと
「いつでもきなさい。」
と言ってくださった。

取材での一期一会は久しぶりだった。
取材云々よりも、
素敵なおじいさんとおばあさんに会えた事に感激した。
おもてなしに感激した。

DVDが出来たら届けにいこうと思う。
勉強しないと、この話は描けない。
勉強足らずだと
ちょっと興味をもった若めの女が
趣味程度でやった
みたくなってしまう。

このテーマは難しい。
一部だけ取り上げるとしても
知識がないと、このテーマは難しい。

でも何のソースが正しい情報なのかがわかりかねる。

修羅の翼 を読み終わった。
この本は戦争をしる上でとても重要な本だと思った。

感情がつまっている。