願はくば 花の下(もと)にて春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ
西行法師の詠んだ歌。
この歌が心に残る、っていうのは日本人だからこそなのかもしれない。
日本人が好きそうな文句なんじゃないかな、と思う。
ここに言う花とは「桜」だとすると、「死」という言葉とかけてなお、望月に生える美しい情景やら切なさを思い浮かべられるのは、日本人らしい、ってことなんじゃと…。
きさらぎ、っていうと二月だけども。
旧暦の二月っていうと今よりももっと春よりだから。
万葉集あたりまでは中国の影響が強くて「花」というと「梅」だったけど、その後は「花」というと「桜」っていうのも一般的になってきた、みたいなことを学校で習ったような習わなかったような…(どっち)
西行さんの頃にはもう「桜」だろうな、きっと。
もちろん、西行さんは僧侶な訳なので、ここで今の日本人が思い浮かべる「桜」と「死」のイメージで詠んだのではない、と思いたい。
と、話はずれていて…。
西行法師の歌のことが書きたかった訳ではなくて、『花の下にて春死なむ』という北森鴻さんの書いた小説の話。
北森鴻さん自体は、『凶笑面―蓮丈那智フィールドファイルⅠ』が出会い。
この蓮杖那智シリーズにあっという間に(というよりおよそ3日の内に)はまってしまい、ネットで二作目三作目を注文して、一週間で三作品を読んでしまう程。
で、北森鴻さんが最初に注目を浴びた作品ってどんな作品なんだろう、と思って気になっていたのがこの『花の下にて春死なむ』という連作短編集。
読んでみると、北森鴻さんは初期の頃から民俗学とか伝承・怪談話などに関する探究心のある人だったんだなぁと感じて嬉しくなったり。
北森鴻さんはもう亡くなられているので最新作は望めないけれど、今出版されているものを大事に読んでいこうと思えた。
もう一つこの作品に関して嬉しかったことは、購入した本屋のこと。
色々な本屋のポイントカードを4・5枚所持していて、大きさで言ったらもっと大きい店舗もあるのに、何故かいつも寄ってしまう本屋がありまして。
その本屋の売り場面積は駅の改札出たところという立地もあって、決して広くはない。
それなのに私の好みとほぼ完ぺきにシンクロしているという本屋。
大手の大型店舗ですら、たまに最新作しか置いていないようなシリーズも、私が購入し始めているシリーズに関しては必ず一巻から置いてあるし、平積みにして目立つようにしてある本は、以前読んでおもしろい、と思った本がものすごい確率で置いてあったりして。
とにかく、こんなに多種多様な本がある中で、こんなにも自分好みで作品が並べてあるのはものすごくテンションがあがる。
で、昨日久し振りにその本屋に寄ったら、最近読み始めた北森鴻さんの作品が、しかも人物紹介には必ず上がる作品が平積みにして置いてある、と。
この前までそのスペースには違う作品が置いてあったのに…と。
これはもう、買うしかない。
他のところでは平積みされているものを買う確率が4・5割程度なのに対して、この本屋では、平積み=自分好みの本なんじゃないか、という期待感もあって、8割くらいで平積みの本を手にしてしまうというミラクル。
それがまた今回も証明されました、というオチのない話。