ほとけというはたれぞというぞしんさいにさんきゅうすべし。
と道元禅師の修証義にあるのに。
おぼうさんはさとりをどうおかんがえなのか。さとりをのりこえたせかい。さとりをすてたせかい。あかごにょらい。
それがめざすべきほんらいのすがた。でしょう…なのに…。
まったくわからない。あるなしにこだわる。そんなものなのか。もっとちゅうしょうどをあげよ。とせつにおもう。
なにをやっているのだろう。めいそうでもまいんどふるねすでもよいではないか。
たどりつくのはちゅうしょうかされたことばをよせつけないあらわせないせかいのたいかんでしょ。なにをしている。
あるおぼうさんがまいんどふるねすやめいそうをなにかちがうと理論立ててのべておられた。
ぶんしょうをよむとつらいほどムズカシイ。ぶつどうはえらいむずかしいもんだとおもった。
さのおぼうさんのかいせつによると。 あーあとおもった。そんなものはどうでもよいのでは。
どうなんだろう。しんりはとてもたんじゅんじゃないのか。
ぶつどうはとてもたんじゅんじゃないのか。ちゅうしょうどがひくいとことばにとらわれる。
そんなものではないはずである。
たくさんの経典はほんとうにおしゃかさまがのぞまれていたことなのか。
きょうざんげきちく。
ほかにないだろう。ていぜんのはくじゅし。ふしき。
それいがいになにがあるの?
れきだいのそしはすべておなじことをさされている。おしめしになられている。さとりはひとつすべておなじどういつ。
あなたはどこでうまれどこでしぬのか。
あなたはうまれてこのかたそこからういっぽうごいたことがあるのか。
そのひはんされたおぼうさんはわかっておられるのでしょうな。すくなくとも。とうぜんですよね。