月曜から三日間、フランスの雑誌記者とカメラマンの運転手となって福島各所を行ってきた。目的は、放射能に不安を感じる、子供さんを持つお母さんの心境を取材するため。
そして高精度ガイガーカウンター・インスペクターを携え。また、実は福島はあまり知らないので、ポータブルナビも別の知人からお借りした。コレはとても重宝した。
火曜日は会津若松市へ向かい、幼い子供さんを持つ3人のお母さんと待ち合わせ、取材。それぞれの生き方の違いから、感じ方もそれぞれ。一人の方の「どうしていいかわからない」という本音は、おそらく多くの一般市民に共通した思いだろう。自分の周りに多くいる自己判断自己責任で実行するような自然派移住者は早々と避難行動をとったが、全体から見ればごく一部少数派でしかない。
会津若松は福島県内では放射線量は低いとされており、実際ガイガーカウンターで計測してもそれは確認された。結構県内他市町村からの避難者も多いようだ。しかし、客観的に見るフランス人にとっては理解しがたいようだった。避難、といってもそれほど距離を稼いでいるわけでもなく、線量も他県との比較なら決して低くはない。彼女(フランス人)の疑問はどれだけインタビューしても、逆にますます深まっているようだった。自分は、そこに納得しうるだけの明快な解などないことをわかっていたが、その場では話さなかった。と言うよりそれを説明できるほどの能力がなかった。
高速を飛ばして会津から今度は郡山市へと移動。こちらは風の影響によって局地的に高濃度の箇所が点在する、いわゆる「ホットスポット」。地表1mの空間線量も、福島市内と似たような値を示した。暫定基準値からいえば大幅に下回って直ちに影響の出る値ではない、ということになる。従来の法律に従えば…。

事故後7ヶ月を経た今、ようやく一般人が知り始めた情報、あるいは一般人が動き始めている事柄などは、自然派移住者多数が住んでいた私の在住する町ではすでに4月頃からとても速いスピードで顕在化していた。自分は在住しつつ、たまに関わりつつも客観的立場で推移を見守っていた。距離、あるいは生き方による温度差、認識の差などなどこれまでの流れを。

前述している「一般人」という表現が正しいかどうかはともかく、大別すると人生哲学(自分らしい生き方)、問題意識を持っている人といない人たちにはっきり別れているように感じた。現実を認識したうえで今後を想像すればよほどの理由がない限りは一刻も早く避難することが望ましいという結論はそれほど難しい思考ではない。問題意識を持った方々の行動はとても素早いという例が多々あった。とにかく最低限女房子供は避難。それでもなお、あえて留まっている方々も確かにいる。それらの知識人は、その地区での駆け込み寺的相談窓口として機能していたり、人々に危険を訴える啓蒙活動を行っていたり。1人でも多くの方々の意識を変え、行動を促すというお役目なのか、その役割を果たすまではその場に留まっているという方が各地区に見受けられた。危険を認識した上での無償活動。
それでも多くの方々は、普段と変わらぬ生活を営んでいる。福島市内でも高線量の地区を見て回ったが、マスクをする人は少なく、洗濯物が干してある風景も簡単に見つけられる。ちなみに、今回様々な場所で測定したが、地表1mの空間線量の最高値は5.9μSv。(福島市内某所)さすがに中学校のグランドは除染されて低かったが。多くの人は「よくわからない」ままに、不安ながらも生活を続けている。続けざるをえない。
フランス人はしきりに「Why?」をくり返す。(←英語でしゃべってます)何故逃げないのか。何故。それに対し、もちろん人それぞれの理由がある。多くは親の仕事であったり、子供の学校であったり、親の面倒、土地などなどひとりひとり複雑に絡み合う多くの理由がある。それに対し彼女は、それらの理由(とされるモノ)は子供の命よりも重いのか?次世代の将来よりも重要なのか?とたたみかける。しかし、彼女の矛先はもちろんお母さんたちではない。彼女とてすぐに行動できない人間の性というか理由も理解できないわけではない。まずは政府に対してということになるのだが。
政府が国内はもとより世界各国から批難を浴びつつも、世界核戦争時下と同等の基準を定めたり、避難対象地区を広げるどころか解除する方向に向かっていることの理由は、多くの問題意識の薄い人たちの不安をごく一時的に取り除くこともあるが、最終的には経済を優先している。これは先の逃げない理由を語る「家庭」という単位、そして「個人」にもあてはまる。あまりに世の中が科学技術、物質偏重、拝金主義にかたよりすぎてしまったがために、ほんとうに必要なモノ、「価値」という概念が分かりづらくなってしまっている。
具体的事象として何らかの結果が出るまでは、五感で認識できるまではなかなか人はそれを理解することができない。いや、認識しても受け入れることができずに苦悩することのほうが多い。
多くの近代的利便性や娯楽は「想像力の欠如」をもたらしたように思うが、今回よりそのことを実感した。お湯にカエルを入れるとその熱さから逃げようとするが、水に入れたカエルは徐々に熱しても認識できずに茹で上がってしまうという話があるが、これを我がことと意識していたいものだ。
色々彼女らと話をした中でふと、逃げない理由のひとつとして、今回の原発問題が人災であったがためではないかという考えもわいた。論理的に理由にもならないのだが、これまでの普通の生活をあまりに不条理に侵されてしまい、天災なら割り切れなくもないが責任の所在が明確な人災であるにもかかわらずしかるべき保証もない現状。人々はとりあえず正しげに責任者を追求して何らかの対応を待ち望んでいる状態。
人民が迷い悩まないようにするのが国家の役割のひとつだが、何かに誰かに依存して責任を押しつけたり、自分で判断しようともせず、想像もしなければ独自に情報を集めようともしない、などなどの功罪も見えてくる。
理想的国家として機能していると信じている人はどれだけいるだろう。国を疑いつつも依存はしている現状。でも、責任ってのは実は個々人の自己責任しかなくて、社会的法律的責任なんてのは外界の秩序を維持するためのものでしかない。
彼女の「何故逃げない?」という、とてもシンプルだけどとても重要な問い。自分の受け止め方は、いつもながら妙なフィルターを通すと、それは原発問題ということではなくなる。とても今早急に対処すべき重要課題であるという認識は持ちつつ、同時にその問いの本質は、「人の生き方」、「人のありよう」、「人とは?」本当に単純に「Why?」に行き着く。それって紀元前から様々な哲学者によって語られてきたこと。
とても彼女を納得させられる回答ではないが、自分の回答は「答えはなく、あるいは無限にある。正解はなく、全てが正解。」本人には言わなかったが。
友人ラッコさんとの以前のやりとりを思い出す。「質問に答えろ!」
…ともかく、前述したように各地に様々な形で避難をバックアップしたり危険性を啓蒙したりしている個人や団体が沢山活動されている。理解している人はとうの昔に行動し避難ているので、まだ不安を抱えつつも動けずにいる人々を対象に、危険を認識しつつ彼らは頑張っている。
視点の固着化による狭い世界観、それは全ての人に共通する事柄ではある。この世界が11次元だか何だかよくわからないが、我々は3次元すら理解できていない。表を見ている時は裏は見えていない。中身がどうなっているのかも。啓蒙活動する人々はその視点から見える情報を一生懸命伝えるが、フォーカスしない限り溶け込んだ景色の一部にすら感じないだろう。それでも1人でも多くの方々にと、声掛け、ビラ、デモあらゆる手段で試みる。間違っても風化しないように。
日常生活が営まれる風景を異様に感じているフランス人、というか「Crazy!」とはっきり連呼していた。彼女たちのような外国人の「Why?」という叫び、投げかけはとても貴重だと思う。
自分も少しインタビューを受けた。放射能との「共存」、放射能への「祈り」という個人的考えを伝えた。当然ながら奇妙な印象だったようで、こういう考え方の日本人は極めて稀だとも伝えた。古来の日本人的考えのようにも思うのだが…。
これを機に物質やお金からの価値観の転換、「足を知る」こと、極力ゴミは出さない(放射性物質が飛散防止にもなる)などなど、話したような気がしたが果たして伝わったかどうか。
色々と有益な情報やら、気付かされたこと、いろんな人にあって収穫は大いにあったのだが。
…忘れてしまいました。
会津で食べたカレーが美味しかったな。
思い出したらまた書きます。


なるべく赤裸々なことをデロッと吐こうという主旨のブログだが、やはり書けないこともある。話す人を選ぶキワドイ内容もいくらか。視点が人ではない場合の事柄を不特定多数に発信するには危険が伴う。
相変わらずの飛んでる文章です。悪しからず。多角的に断片を散らしてます。核心は各々の想像力で…。
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