この日はタイムリミットぎりぎりまで回ろうと欲張ってさらに次へと目指した。

第三十二番札所、角田市枝野・本館、東禅寺子安観音。

角田市街地からだと、国道113号線を丸森方面に進み、左手の阿武隈川の土手を超え、枝野橋を渡る。川の中にある橋。そしてつきあたりの県道245号、角田大内線を右折する。しばらく進んでいくと左カーブの先左手に見えてくる。公民館のとなり。
STONE SCULPTURE-東禅寺1
そういえば前回、半分くらい回ってここを訪れた際、同行した友人が微細な感覚を味わったと言っていた。

自分にはそんな感覚はなかった。今回も。だが、それを追い求めてもとらわれるだけだと彼は言った。

何か見える、聞こえる、感じる、金粉が出る、その他さまざまな神秘体験はよく耳にする。それらを神秘体験と位置づけること自体がナンセンスなのだろう。でなければ普段日常当たり前の五感、それらそのものがまさに神秘体験。そう認識できないだけ。日常のことは人は気付かない傲慢さがある。五感、五体が満足である、生きていることそのものがいかに不可思議で有り難きことかという気付き、なかなか見えてはこない。実はだまし絵のようにひそんでいる、いやむしろ自分の身の周りに起こる事象すべからく、それなのかもしれない。

その友人の彼女とこの前話した時も、そんな話が出た。

特に日本人に多いこと。全員横一列で並んで行進している。考えることなく楽であるから。周囲と同調することで、一時の不安が解消できる。そこから外れると気になってしまう。周りからの批評が気になる。結果自分と向き合うことなくその流れへと追いつき、追い越さないようにあわせてしまう。無自覚な場合が多い。

社会全体の風潮、政治もマスコミも。

その行進で、何らかの拍子で転んだりして列からはぐれてしまった時、多くは不安になったり苦しんでみたり不幸に感じたりする。がしかし、まさにその立ち位置こそが重要。視野が広がり、今まで見えなかったものが見えてくる。その気付きは何ものにも変えがたい価値。窮地は絶景ポイント。滅多に見れないものを拝ませていただける千載一遇の機会、実に有り難いこと。

墓穴をみずから掘ることはないし、進んで落とし穴に落ちる必要はないが、落ちた時は痛みと共にそこから見える空を眺めよう。



STONE SCULPTURE-東禅寺2

巡礼歌 「あなうれし ながきいずみの のりのみず こころのあかを あらいすすぎて」



【送料無料】敏感肌・乾燥肌の方専用お試しセット!