Anarchy is Order

Anarchy is Order

京都を中心に活動するフォークシンガー、吉田一平のブログです。

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「若者が頑張っているんだから、ちょっとどうかなと思うところがあっても、苦言はあまり言わないであげて」というフレーズは、これまで何度も繰り返されてきたし、それがよい方向に働いたことなど、やはり一度もなかったのである。反省をして成長するのだから、間違えるのはある意味では不可欠なことだし、鼻っ柱をへし折られて恥をかくのもまた、若者のうちに経験しておくべきことだ。それなのに、反省の機会を奪ってしまう、こういう外野のロートルたちは、いざ挫折し傷ついた若者たちがあらわれると、手を差し伸べるどころか、自分たちを守るために、彼らを冷酷に鞭打つのである。それだけにとどまらず、自分たちと若者の愚行とは全く無関係だとまで言い始めるのである。これがこの地上で何度も繰り返されてきた、汚辱の歴史なのだ。
「今日は奇跡。明日は汚物箱に捨てられる。」(アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟」)

エレキギターのメーカー「フェンダージャパン」が2015年に終了したのは記憶に新しいところである。ストラトキャスターやテレキャスターを作っていたメーカーの日本支社といえばおわかりであろうか。かつてフェンダージャパンは高い技術力と低い価格によって、低迷期のフェンダー社を牽引し、アメリカ本社をもおびやかす製品を作り続けた。USAではフェンダージャパン製品の発売が禁止されたほどである。これほどのメーカーがなぜ終了したのかは、これは定かではない。

現在、同じ価格帯での製品を作っているのは「スクワイア・バイ・フェンダー」である。これは中国製だ。中国製というと小馬鹿にする人があるけれど、そんなことはない。十年前ならいざ知らず、今となってはメイド・イン・チャイナの技術は飛躍的に向上している。実際、中国製スクワイアのテレキャスターを分解してみたところ、非常に堅実で丁寧な作り方をしているという印象を受けた。この価格帯なら十分だ。

世界中のメーカーが中国に工場を置いている。本家フェンダーも、モダンプレイヤーシリーズを中国で生産し始めたし、「カジノ」で有名なエピフォン社はチンタオに拠点を置いている。日本のアコースティックギターのメーカーS・ヤイリの工場が中国にあることは有名だ。モーリスも工場は中国。ヤマハは台湾に自社工場を作っている。マニアから絶大な支持を得ているイタリアギター社は韓国で生産している。
これで中国や韓国の技術が上がらぬわけがないのである。スクワイアは中国のメーカーだが、インドネシアなどの工場で製造しているという。つまり、いまや中国は他国の工場に技術指導までできるレベルになっているということである。
テレビなんかでもそう。これまで日本でテレビといえばシャープだったけど、ホンハイに買収されてなんとか延命している。いま一番画面の綺麗なテレビを作っているのは韓国のLGだ。曲がるディスプレイを開発したところだ。

ひるがえって、日本のものづくりはどうだ。日本の家電メーカーはマイナスイオンだのプラズマクラスターだの、オカルト製品を開発することに腐心している。東芝は白物家電から撤退した。先日のニュースでは、あの石川島播磨重工が、熟練工の不足により、船を作れなかったという。メイド・イン・ジャパンが素晴らしいというのは、もはや過去の話なのである。

日本のものづくりは既に破綻している。中国や韓国はそれを、真面目で堅実なやり方で追い抜いていく。それは、不景気だといって安易にリストラクチャリングをして数字上の業績回復ばかりを追いかけ、労働者を大事にしなかったり、熟練工を育てる手間暇を惜しみ、コストが安いからといって生産拠点をアジアに移し、国内の工場でも外国人労働者を使って技術流出を進めてきた、日本の企業が自ら招いたことである。産業の空洞化という言葉で警鐘を鳴らしてきた人もいたが、それに企業が耳を傾けることはなかった。
組織が人を大切にすることをやめると、その組織は終わる。昔から何度も繰り返されてきたことである。


ちかごろ、ウヨクの人たちが、尖閣諸島をめぐって日本と中国が、あるいはアメリカと中国が戦争になる、いや戦争やってやろうじゃんと煽り立てている。しかし産業の中心をこれだけ中国に預けていながら、その中国と戦争になるようなことは、絶対にありえないし、もしそんなことがおきれば、吹き飛ぶのは日本経済のほうであると断言しておく。もっといえば、みんなが好きなアイフォンを作っているのも、中国である。アメリカの赤字国債を買い支えているのも、中国である。中国と戦争になったら、日本も、アメリカも、吹き飛ぶ。
産業の中心を日本に戻そうと無茶なことをいうのではない。リアルな話として、現状、日本は専守防衛、平和外交によってしか生き延びることができない国なのである。米軍基地なんかいくら作っても無駄であるし、防衛予算にいくらカネをかけても意味がない。日本人はいまいちど自分たちのいまいる自分の立ち位置を見つめ直さなければならない。

政治的な考えの違う相手(例えば政治家)を批判するときに気をつけなければならないことは、相手と同じ土俵に上がらぬことである。これはヘイトスピーチに対処する場合においてもおいても重要なことだと考える。例えば、論敵が「お前は馬鹿だ」といった内容の、小学生並みの低レベルな言葉を口にしたとしよう。ここで同じように「お前こそ馬鹿だ」と言い返すのは百害あって一理なしである。


 たとえば第二次大戦中、連合軍の間で流行した「ボギー大佐」の替え歌で、「Hitler has only got one ball」という下品な歌詞のものがある。つまり、「ヒトラーには睾丸がひとつしかない」という意味のものである。この歌は「ゲーリングの2つはとても小さく、ヒムラーも同じくらい、ゲッベルスはあわれ何もない」と続く。
戦時中日本の銃後では「ルーズベルトのベルトが切れた、チャーチル散る散る国も散る、出てこいミニッツマッカーサー」という歌があった。全国的に歌われていたもので、おそらく誰か大人が作詞して子供たちに歌わせていたのだろう。どっこいどっこいである。こんな幼稚な言い合いでは歌い手の品位が問われてしまうというものだ。

ひるがえって現代、与党の政治家を批判するさいに「あいつは頭がおかしい」などと発言する人がある。あろうことか「キチガイ」という言葉を使う人もあるぐらいである。精神障害者に対してこれは失礼ではないか。人権意識が高い(はずの)左派の論客などがこうした言葉を弄するのである。こうした表現はさすがに見るに耐えない。
身体障害者が政治家をやっても文句は出ないが、どうして精神障害者は政治家をやっはならないのか。心ある人ならば、たとえ意見の違う相手でも、具合が悪そうなら相手の病状を心配するのが筋であろう。だがアドルノやホルクハイマーが指摘したように、ほんとうに恐ろしいのは、精神障害者でないいわゆる健常者たちが、極めて誠実な理性や知性に基づいて、圧政をしくということである。それを「狂気」とラベリングすることで得られるものは、なにもない。

ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだ人にはよくわかるであろうが、安倍総理のほんとうにおそろしいのは、彼が「ダブルスピーク/ダブルシンク」を多用するところにある。オーウェルはこの手法を「戦争は平和である、自由は屈従である、無知は力である」という端的な言葉で表現した。安倍総理は「原発の危険は安全である」「集団自衛権による戦争は平和である」といった具合に、見事にそれを使いこなしている。
オーウェル的ディストピアはこれだけに留まらない。インターネット上のジャーゴンは「ニュースピーク」の現代的な現れであるということだ。ニュースピークとは文法や語彙を極端に削減して、民衆の思考の幅を狭めるという手法である。思考の幅が狭まれば権力を批判する知性が衰える。
ネット右翼と呼ばれる人々は自らニュースピークによって狭い世界に自らを閉じ込めている。すなわち「日本は左傾化しておりそれを中立に戻すだけだ」「左翼リベラルは朝日新聞社やフェミニズムや市民団体、ひいては中国や北朝鮮とつながっていて、反日的である」とするものである。これらの前提なしにはネット右翼は発話することができない。
インターネットは文字数の制限から、ニュースピークを再生産しやすい傾向にあるようである。例えば相手を嘲笑するときの笑い方「藁」「www」「草」などは、その典型である。これらは刹那的で厭世的な含みを持ち、相手を見下げる作用を持つ。しかしいくら論敵を見下げたところで現実は変わらない。これをを使っていいのはせいぜいジョークを書くときだけに限られる。真面目な議論のときには使うべきではないジャーゴンである。左派の論客がこうした言葉を使うのを見るたびに心の中でひりひりするような痛みを感じるのは自分だけではないはずだ(と信じたい)。これらネット上のニュースピークの具体例を挙げるときりがないので、例示は今はこれだけに留めておく。

これらニュースピークに対抗することができるのは、語彙を増やすこと、概念装置を増やすこと、思考の幅を広げ、新しい表現の幅を増やすことである。私たちが権力に相い対するとき必要なのは、新しい表現を創造することである。かつてサルトルは「飢えた子供の前で文学は何ができるのか」という問いを立てた。さしあたっての答えとして、それは新しい批判的表現を創造することである、と言おう。ハムレットなら「それには芝居がいい」と言っただろう。言葉、芝居、音楽、あらゆる表現を、抵抗の文化を絶えず創出し続けること。そのときはじめてペンは剣となる。