横須賀にある、走水神社(はしりみずじんじゃ) に行ってきました。
友達と、日本武尊に会いに行くツアーをしてきました。
走水神社の御祭神は、ヤマトタケルノミコトとオトタチバナヒメノミコト。
弟橘媛命記念歌碑「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」という
記念碑がありました。
庖丁塚「庖丁と鳥獣魚介菜類等食物に感謝」(昭和四十七年建)
舵之碑「弟橘媛命の顕彰と海の平和安全を祈る」(昭和五十年建)
針之碑「草枕 旅の丸寝の紐絶えば あが手とつけろ これの針持し」針と衣類等に感謝(昭和五十八年建)
顕現之碑「武尊と橘媛命の愛と御神徳を崇める。」(平成三年建)
以下、mixiの「走水神社」のコミュニティからの転載
☆走水神社由緒
神社の創建は、資料の焼失により不明。
伝承は『古事記』と『日本書紀』に見える、ヤマトタケル東伐の物語に依拠する。
第十二代景行天皇の皇子、ヤマトタケルは天皇の勅命により、東国の蝦夷征伐の旅に出た。途中、伊勢神宮で戦勝祈願をし、その際に斎宮であったヤマトタケルの叔母ヤマトヒメから宝剣を授かる。これが「天叢雲之剣(アメノムラクモノツルギ)」である。
旅の途中、駿河(『古事記』では相模のこととされる。これは後のオトタチバナヒメの和歌につながる。)で賊にだまされて焼き討ちにあうが、宝剣で草を薙ぎ払い、火の方向を賊に向け直して難を逃れた。この時から天叢雲之剣は「草薙之剣(クサナギノツルギ)」とも呼ばれるようになった。また野原が焼き払われたことから、「焼津」の地名がついたとされる。
更に旅は続き、一行は東京湾を渡って房総半島へ向かおうとした。これは古代の東海道の一部で、この旅程が一般的だったのだそうだ。
しかし海が大シケで、一行は立ち往生するハメに。この時に一行の宿を世話した土民に、ヤマトタケルは自分の冠を下賜した。この冠を祭ったのが走水神社の創建だという。
ヤマトタケルの妃で、この一行に同行したオトタチバナヒメは、みずからが生け贄となって海の神を鎮めると申し出て、大シケの海に入水した。するとたちまち海は凪ぎ、一行は旅を再開することができた。
その七日後、オトタチバナヒメの櫛が海岸に流れ着き、それを納めた御陵をつくることになった。これが後の橘神社になったということだ。橘神社は、一行が陣営を張った「御所ヶ崎」にあったが、明治十八年に「御所ヶ崎」が軍用地として国に接収されたため、走水神社の境内に移された。その後明治四十二年に走水神社に合祀され、以後、走水神社の後祭神は二柱となり、現在も近隣の尊崇を受けている。