時間ができたから映画館に通い詰めたけど、実はこの映画だけは、予告編を見て、見に行こうとは思わなかった。
女子児童の失踪というのが映画の発端でもあるし、ちょうど先日山梨のキャンプ場で児童の失踪事件がありました。こういうのは、本当にやりきれない。親のことを考えると、それだけで胸が締め付けられる思いです。
だからこそ避けてました。吉田修一の原作本は読んだことありませんが、映画化された「悪人」にしろ「怒り」にしろ、どちらも映画としての出来は素晴らしかった。日本映画の持つ良い意味での人間心理の深層を炙り出す事に成功してます。アメリカ映画ならここまで出来ない。
ただねぇ、だからこそ、触れたくないもの、触れて欲しくない心をヒダを映画が描く事で、観客である僕らは見てることが辛くなる。この重さの体験をする気にはなかなかなれない。だこらこそ避けていた。
軽い映画が、悪いとは言いません。先の読める三谷幸喜の喜劇映画の方が鑑賞するのはどんなに楽か。
それでも今回、「空の青さを知る人よ」を見た後、もっと映画らしい映画を見たい願望が湧いてきて、勇気を出して、この「楽園」に臨みました。


感想を先に言います。

見て良かった。
日本映画の持つ一つの到達点にある作品と言って良い。

解説によれば、吉田修一の短編集から瀬々敬久監督が自ら脚本を手掛け監督されたとの事。
原作の映画化を原作通りに作り上げることの多い日本映画にあって、短編を映画化するために大胆に拡大化し脚本化した瀬々敬久監督の勝利。
 
舞台は、長野県のとある過疎の町。
実在の飯田市や松本市なんていう地名も出てくるし、本格的なお祭りもリアリティ有りすぎで、これが映画のためのロケなのか本物の祭りをスケッチしたものなのかは判断つきかねるほど。
それくらい、村の描写がリアルに描きます。
 
プロローグは、一つの事件からスタートします。
過疎の村で、小学生二人が学校帰りに別れたY字路で一人の女子児童の失踪事件が起こります。


そこから映画は同じ舞台の同じ村落で起こる出来事を3つのパートに分けて描きます。

事件が未解決のまま12年が経過し、最後に別れた女の子である紡は20歳。
心の傷を埋められないままでいました。
そんな時、再びの失踪事件が起きました。
母親と共に難民として日本に来た青年豪士が疑われます。
街の住民に追い詰められた豪士はパニックを起こします。

二つ目のパート。

妻を亡くし、村にUターンして戻ってきた善次郎は、養蜂家として暮らし、村の人達の役に立つべく奮闘するも、村おこしの話のこじれから村八分にされてしまいます。
善意が善意がとは限らない。
やがて善次郎もまた爆発します。

やり切れないような村社会における負のエネルギーが蔓延する中、起きる事件。
現実に同じような事件の報道が記憶にあるからこそ、この映画にリアリティを感じるのだと思います。
美しい自然でありながら。人間の持つ悪意が渦巻く様を淡々と描く演出の冴えを感じます。
善意ある小市民が堕ちてゆくのは、先日見たジョーカーに通じる部分があるけれど、この楽園が日本のどこにでもある社会であるだけに、僕らにはよりより心に重くのしかかる。
映画そのものの出来もジョーカーより上です。

豪士と紡、善次郎の佐藤浩市とシングルマザーの久子との心の触れ合い、それぞれが心の救いではあるのに、それが無残にも踏みじまれる社会。
善意ある人達の怖さ、私たちの社会の抱える闇、映画はそれを訴える。

佐藤浩市は安定の好演、僕は片岡礼子の久子の温泉で魅せる中年に差し掛かる女性の哀愁に心惹かれた。
紡役の杉咲花は「12人の死にたい子供たち」に出ていたようだけど、あまり印象に残ってない。
でもこの映画では無感情の抑えた役所を好演。
大きく羽ばたくやも知れない。
唯一残念なのは、綾野剛の豪士。
自閉症の難民役を上手く演じようとしてるように見える。
スラリとした体型をワザと猫背にしダサいイメージを作り出そうとしてるのがムリっぽい。
同じ吉田修一原作の前作「怒り」でのゲイ役は真に迫っていただけに残念。
唯一のミスキャストでした。 

楽園というタイトルが象徴的だし深い意味を感じる映画です。