今日は3.11の日であります。
あの日から7年の歳月が流れました。
7年経ち、復興した東北の街と、今だに残る仮設住宅、そして原発事故の顛末。
それら全てが風化した過去ではなく、あの3.11から連なる今の現実があることを深く思い知らされる日となりました。
以前にも書きましたが、僕は7年前の3月10日仙台に出張で出掛けました。
その時乗ったタクシーの運転手にこう言われました。
「お客さん、今日で良かったね。昨日は新幹線止まったから」
そう、3.11の前々日、3.9に震度5の地震が起き、新幹線も一時停止しダイヤが乱れて大変だったようです。
まさか3.11にあのような惨劇が起きようとは夢にも思わなかったから。
そして3.11の当日、午前中に前日仙台で商談した相手と電話で話し、次回の打ち合わせの予定を決めた後、午後2時過ぎにあの大震災が起きたのでした。
地震の後、職場は停電。
ラジオでは余震に注意を促すと同時に大津波警報が発令されたとアナウンスが流れます。
しばらく待つも停電が復旧される見込みがないことから、やむ終えずこの日の仕事は断念。
各自自己責任にて帰宅することを指示しました。
僕はその後夕方まで会社に詰めてその後の成り行きを見守りましたが、やがてこれもまた断念しクルマで帰宅をする事に。
ところが、地震のため高速道路は閉鎖、一般道で帰路に向かうも信号も消えてることから、大渋滞に。
渋滞の中、ようやく妻に連絡が取れ、家族の安否が確認できました。
結局、3時間以上かかり帰宅。
幸い家の中は、本棚の本が散乱しサインボールがあちこちに転がっている他は、大きな被害もなく安心しました。
ただ、車のラジオで津波の残状を聞いてはいましたが、自宅に帰りTVで見た津波の映像には目を覆いました。
こんなことがあるのか!
こんなことがあって良いものか!
これは現実のものなのか?
その衝撃は今でも忘れられません。
僕の知る、大船渡や釜石が無残にも瓦礫の街となる映像、千葉袖ヶ浦でのタンク爆発による燃え盛る炎。
ただただ、涙が流れました。
余談ですが、大震災の折、マリンではオープン戦のチケット販売のため、お客さんもマリンにいたとの事。
大震災では当然電車も止まり、自力で帰れないお客も帰宅難民に。
その時、その帰宅難民のお客をマリンに入れ、キッズルームを臨時の待避所として、マリンにあるブランケットや毛布を集め帰宅難民のお客さんに提供されたとの事です。
また、夕食もフードコートでおにぎりを提供されたといいます。
そして、その指示を出したのが、当時の総務部長、現本部長林新平氏であったと後日談として聞きました。
これは、千葉ロッテマリーンズとして誇って良い事であると思います。
ぜひ、3.11始末記として千葉魂が書いて欲しい。
地震・津波に続いて起きた事、それが原発事故による水素爆発でした。
メディアでは軽々しく放送はしていませんでしたが、この映像を見たとき、これがメルトダウンである事は一目瞭然。
史上稀に見る天災と人災が、同時に起きた事と知ることとなります。
関東地方は、その後電力不足に陥り、計画停電なる、東京電力による史上稀に見る愚行が行われました。
東京電力という驕りを持った会社による天の鉄槌が、結局は国民に及びし事。
それが一番残念なことでなりません。
ただでさえ傷ついた人々に対し、被災者の
避難所を停電させるという愚行すら、東電は行いました。
東京電力という会社は、どの変電所がどの地域に電気を提供しているのか、その一覧すら作っていなかったズサンな組織であったことを暴露しました。
野球界で言えば、計画停電が実施されている時に、ナイターによる開幕戦をセリーグが行う、なる愚行の決定を下した事。
この愚かさは、東電に通じる組織の傲慢さ以外なにものでもない。
流石に当時の民主党、蓮舫大臣に叱責を受け、開幕の延期と4月のナイター自粛を決定しましたね。
これは当然のことでしょう。
結局、東日本大震災による死者は15894人、行方不明者2562人という未曾有の大災害となったのであります。
その中には千葉でも21人の死者も含まれます。
そう、千葉も相当な被害を受けた被災地でありました。
マリン周辺の海浜幕張は埋立地ゆえ、緩い地盤があちこちに亀裂や歪みをもたらしました。
それもまた悲しい景観であり、胸が痛みました。
そして、あれから7年の歳月が流れました。
僕は震災の年も含めて毎年、仕事や野球観戦に東北を訪れてます。
仙台では酒の席で、自らクルマを捨て、高台に避難し、一命を免れた方の話を直接聞くこともありました。
あるいは、当時仙台に住んでいたマリーンズファンのHファミリーから、1週間の停電生活で日中でも毛布を被り寒さを凌いだという話も聞きました。
それらの話の中には、身近な者の死があり、その直接の話は、どんなTVの場面よりも胸に迫りました。
それだけに、震災の年、僕は被災地に入る事は出来ませんでした。
その現実に耐えられなかった自分がいました。
震災の翌年、マリンの仙台遠征の折、ようやく被災地を回る事としましたね。
2年目ということもあり、復興の槌音はたしかに見て取れることがありました。
しかし、それでもなお、多くの避難住宅や手付かずの状態にある被災地や瓦礫の山を我が目で見た時、僕にはそるが希望には程遠いと知る事となります。
その時、僕は自身が、この、大震災に対し、どう向かいあうべきか、という答えを以下のように見出したように思います。
無念にも命を落とした方々。
その方々のために出来ること。
それは、自身が精一杯生きることではないのか?
もっともっと生きたかった人達。
その人たちの命を背負い、僕ら生き残った日本人は、彼らの分の命を背負って生きる義務があるのではないか。
ぼくは、3.11の日が来るたびに、「この一年.お前は精一杯生きたか?」
それを問う日にしようと決めました。
以来、7年目を迎えた今年もまた、自身を問うべき日でありました。
「お前は、1年間、精一杯生きてきたか?」
その答えは心の中にしまっておこう。