原作百田尚樹、監督山崎貴、そして主演を岡田准一という、「永遠の0」と同じチームで映画化した作品であります。

「永遠の0」は、今は無きオギタカファンの同窓ともちゃんに、「YGさん、永遠の0見てへんの?」と小ばかにされた作品であります。

彼女岡田准一という役者好きやったんですね。

そういやあ、どことなく小柄なベビーフェイスぽいところがオギタカに似てなくもない気がする。

 

とまあ、どーでもよいお話は置いておいて映画「海賊と呼ばれた男」であります。

 

一代でメジャーに頼らず、石油卸売業「出光j興産」を立ち上げた実在の人物「出光佐三」をモデルに書かれた小説「海賊と呼ばれた男」の映画化であります。

 

少しだけ映画の背景を解説します。

20世紀はエネルギー世紀として石油の時代であります。

太平洋戦争の契機となったのは、連合国側がABCD包囲網(アメリカ・ブリテッシュ・チャイナ・ダッッチ)を敷いて日本に石油の禁輸措置をとったために、日本が嚙みついたという側面があります。

その石油にいち早く目をつけ、石炭の代わりに石油を売り歩いた、その姿勢が「海賊と呼ばれた男」のモデルでありました。

 

映画は、そんな出光佐三をモデルにした国岡商店を率いる国岡鐡造の生涯を描いた伝記映画的要素の強い作品となりました。

僕は原作を未読ですが、それでも石油が欧米のメジャー資本に握られ、その精製から小売りに至るまで、メジャーの動向に左右されてきた歴史は、一般知識としてありました。

そして、そんな中、たった1社だけメジャーに頼らず純国産の石油卸売業に徹したのが出光興産であるということも漠然とした知識としてありました。

ですから、映画で描かれるところの国岡商店の在り方に、普通に接することができましたが、それでも映画全体からしたら説明不足であると思います。

 

映画では、戦後石油統制から外されたり、石油メジャーとの資本提携を蹴ったために、石油の輸入を止められ、窮地に陥ったとき、タンカーを自ら作り、当時イギリスの資本下にあったイランからの直接輸入を仕掛けた経由がドラマチックに描かれます。

イギリス資本がイランの石油発掘権を握っていたのは、以前書いた「ロレンスのいたアラビア」で述べたように、20世紀欧米がアラブ・ペルシャを蹂躙した名残であります。

 

余談ですが、日本は昭和50年代のオイルショックを受け、日本資本による石油発掘が必要と判断し、イランとの間にイラン・ジャパン石油化学(IJPC)を設立、メジャーに頼らず独自の石油発掘ルートを開発しようとしましたが、これはイランのパーレビ国王の失脚、ホメイニ師によるイラン革命によって挫折しました。

このIJPC締結当時、イランへの渡航のビザなし交流の結果、日本にもたくさんのイラン人が流入したことがあり、それが社会問題化したことがありましたね。

 

映画の話に戻ります。

映画は、完全なフィクションでありながらも、伝記映画の側面を持つと書きました。

実際、そのような作り方でありますが、どうしても実在の事件や人物の呪縛が逃れられずに、ダラマとしての弱さを感じました。

大きな大河ドラマとしての映画化を望みながらも、人間もストーリーも描き方が不十分であったように思います。

出来として考えれば、「永遠の0」のほうが上でありましょう。

 

全体的に空襲の焼け跡や、戦後の街並みの描き方のセピア色は、「三丁目の夕日」のオマージュに見えました。

まあ、監督も美術も同じなのだから仕方ないけどねえ。

 

主演の岡田准一という役者についても一言。

こういう老役の演じ方は難しかったことでしょう。

でも演技に力が入りすぎて、これではNHK大河の演じ方であります。

こういう型にはまった役どころの演じ方は好きではありません、多くの日本映画に見るところのステレオタイプな役どころでありましょう。

このへんからの脱却を僕は望みます。

 

映画の中とラストに流れる、オリジナルの社歌は感動を受けます。

監督の作詞というのも好感。

この映画で一番良いシーンだと思います。

まるで「レ・ミゼラブル」でありますよ。

 

最後に「國岡商店」という架空の屋号でありますが、商店である以上主人公は「社長」とは呼ばれず、「店主」と呼ばれるのが凄く新鮮でありました。