「人の言うことに振り回されていないか?」


僕はずっと、このことで悩んできました。結婚(特に再婚)してからはずっとコレです。


例えば…


僕は西野亮廣さんとか鴨頭嘉人さんの考え方が大好きです。厳密に言うと、彼らの100%を肯定しているのではなく、8割〜9割ぐらいを支持していて、残る1〜2割の行動や発言には「ん?」と思うこともあったりしますが、「そりゃ、別の人間だから当たり前だよ」と解釈し(整理し)、彼らの発言や行動を模範だと思いながらできることは真似をしています。


僕自身の生き方として、(今は)これがすごく自然であり、自己成長のためにはこれが正解に近いという認識の下で、それを実行しているのですが…


その一方で、冒頭に書いたことを常に思っています。



大きな要因は、妻の発言です。


「自分がない」と何度も言われました。「それって◯◯さんの受け売りでしょ」みたいな。コレは妻だけでなく、過去に違う誰かに言われたこともあります。


別の言い方で、「それは、理想論で現実は違うよ」と言われたこともあります。


こうして白状すると、妻を含めて複数の人達からそういう指摘をもらったのが原因でそんな「悩み」が生まれたような感じに聞こえるかもしれませんが、こんな主張をしている僕自身が、実は以前はそう思っていたんですよね。


テレビで芸能人が話していた(自分の今後の参考になる)事例を、あたかもその人独自の考えのように話す上司を見て、


「それって、この前、◯◯がテレビで言っていたことじゃないか!偉そうに言うなよ!」などと思った経験は過去に何度もありまして…


だからこの件について、妻やその他の友人や上司を責める気持ちは、今はまったくありません。


ただ…


「それって、ただの勉強不足じゃないの?」という気持ちはあります(笑)



実際、僕は息子の誕生以降、ちょっとスイッチが入りまして、それがコロナ禍で加速していきました。勉強というほどのことはやっていないのかもしれませんが、以前の僕自身と比べると明らかな変化でして…インフルエンサーと呼ばれている人達の意見に耳を傾けたり、今までほとんど読まなかった話題の本やビジネス本に興味を持つようになって、今までの自分の「無知さ」を思い知ることになります。


僕自身がここ1〜2年で身を持って感じたことなのですが…


人って、基本、自分(その人)自身の考え方が正しいと思ってます。で、その人の教科書に書いていないこと(知らない部分)に触れるとだいたい批判されます。


西野さんが常々おっしゃっていることで、「『知らない』という感情と『嫌い』という感情は似ている」というのがあるのですが、それってホントにそうだなーと思うんですよね。


例えば、それこそオンラインサロンだとか、鴨頭さんでいうと倫理法人会だとか…


その人にとって馴染みがなかったり、聞いたことはあるけど知らない単語が出てくると、「それって宗教だよね」みたいな流れになっちゃう。そう、そもそも「宗教」がどんなものなのかも知らないのに、「宗教=悪」みたいなその人の勝手な解釈が入って宗教もオンラインサロンもよくわからないから「悪」になってしまう。


僕自身も数年前までそっち側の思考だったのでわかるのですが、知らないことで、かつ興味があまり湧かないものって無意識レベルで敬遠したくなるので、まあ気持ち的にはすごくわかるんですけど…


今は違うので、そこにすごく違和感を覚えてしまうんですよね。


「もっと勉強しましょうよ!」って(笑)



人はそれぞれ価値観や思考のタイプが違うから、それを正しいとか間違ってるとか判断できるものではないですし、例えば知識不足の人でいわゆる常識を知らない人でも、それはその人の生まれや環境に大きく関わってくるからその人だけの責任ではないし、努力不足とも言い切れません。


ただ1つ言えることは、向上心を持って素直に前向きに何かを学ぼうという意識の人と、ただただ自分の生活のことを考えてほぼテレビだけを見て生活している人との知識量の差は歴然としているということです。


もちろん、これについてもどちらが正しいと言えるものではなく、その人の自由です。


とは言え、後者の人だって他人の言うことに左右されずに自分を貫いているのか?と言えばそんなことは全然なくて、幼少期から今に至るまで、その人の親だったり、先生だったり、テレビで見る芸能人だったり、親戚や友人知人だったり、いろんな人の行動や言動、立ち振る舞いから何らかの影響を受けているんですよね。その人たちの常識だって、所詮は彼らを取り巻く環境(他人)が作り上げてきたとも言えると思うんです。


これも西野さんの名言だと思うのですが、今更、新しく斬新なアイデアなんてそうそうなくて、ほぼすべてのことが過去に誰かやったことのコピーである、みたいなことをおっしゃっていました。


仮に、今現在、存在していないサービスを思い付いたとしても、それは新たな発想ではなくて、過去に何人もの人が思い付いて実践してみたけどダメだった、だから今、そのサービスが存在していないのだ、とも。


その心は、「真似は悪いことではない」です。



鴨頭さんはこんなことをおっしゃっていました。『本』の中には著者が人生をかけて得たノウハウや真理みたいなものが凝縮されているから、わずか数時間でそういうものを得られるということが読書の価値である、と。


言い方や表現は、僕が勝手に捏造しましたが(笑)、ニュアンス的にそういうことをおっしゃっていて、僕はすごく腑に落ちました。



知らないより知っているほうが100%良いですよね。


「限られた少ない知識の中で考える」よりも「多くを知った上で吟味できる」という状況にあるほうが100%良いですよね。


結果として、「知らぬが仏」というケースも少なくないです。でも、今までを振り返ってみて、「知らなくてラッキーだった」というのはただの偶然で、例えば僕の場合、競艇で言うと「気配を知らなかったからこそ、当たった」なんていう的中はまったく嬉しくないし、予想者としては恥ずべきことだとも思っています。



人間関係を良くするために、(特にそれが家族であれば)自分を押さえて相手の立場に立って考えることはとてつもなく重要なことだと思います。


ただ、相手の意見を尊重することと、自分の軸がブレてもいいというのは同じ意味ではない、ということをこうして言語化して自分の中で整理したかったのと、今後の僕自身の生き方を見つめ直し、そこがブレないためにこうしてココに書かせて頂きました。


僕の今の考えではあるのですが、その多くは西野さんや鴨頭さんのコピーです。参考にして頂くなり、実際に西野さんや鴨頭さんの考え方に触れ、このブログを読まれた方の「善く生きる」に貢献できたら幸いです。