Invoking the Light

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nothing but the death of a lie

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私の中での「世界の終末」というアーキタイプ(元型)の意義ついて書いてみたいと思います。

 

幼い頃に地球上の人間がなんらかの原因で皆死に、自分だけが残るという夢をよく見ました。しかしあまり怖い夢だったという記憶ではありません。むしろ神秘的なオーラをまとった夢です。どこからこんなテーマを拾ってきたのかというと、藤子・F・不二雄のSF短編シアターの「みどりの守り神」という短編TVアニメからです。3,4歳の時にテレビで見たのですが、子どもにとっては衝撃的な内容で、男性一人と女性一人だけが生き残り他の人間は皆死んでしまうという内容でした。そして男性は精神的に狂ってしまい、女性はショックのあまり手首を切って自殺します。私の親も「これはあかん!」と思ってテレビをポチッと消しました。しかし20年も経った後に気付いたのですがこのストーリーには続きがあったのです!その女は結局自然の働きにより救われ、もう一人別のの生存者と巡り合うのです。これをアニメを全部見ていれば自分の世界観は違うものになっていたかもしれません。

 

人間のいなくなった地球を想像してそれを美しく思うのは私に限ったことではないと思います。日本のアニメや漫画にはよくあるテーマですね。ヨーロッパのロマン派の詩人や画家たちも文明が滅びた後の遺跡に魅了されていました。単なるフェチではないと思います。私の少年期などに人間が皆いなくなるファンタジーを抱いていたのは人間嫌いがあったことも関連していたのかもしれませんが、現代社会に忘れ去られてしまった命の真相に対する切望の現れでもあったのでしょう。人間の作り上げた世の中がなくなれば地球のありのままだけが残るのですから...

 

中学の時にCLAMPの漫画「X」のアニメに出会い惚れ込みました。これも世界の終末というのがテーマです。その破壊的な衝撃はあまりにも強烈だったので漫画の方は連載休止になってしまい、現在に至ります。とてもダークでグロくて、少女漫画だったので感情面でもとてもヘビーで、とにかく私の心に深くなにかが刻み込まれました。そして破壊された東京のイメージがなんとも美しいのです。「X」はいろんな密教やオカルト要素を組み入れていて、さらにミステリアスで禁断の領域に踏み入っていると感じさせられました。(なぜ禁断なのかというと、オカルトなどは悪いものだと親から教わっていたからです。)

 

アメリカのクリスチャンの中には聖書の予言や世界の終末にすごくこだわっている人たちがいます。その影響で私は中学あたりのときにそういう考えに基づいた小説シリーズを読んだこともあります。私のお父さんもこういう話しが好きで、現在の世界情勢にも関連付けています。なのでキリスト教の考える世界の終末もよく耳にしていました。

 

私が書いていた物語にも世界の終末のような展開はよくありました。(たとえば靴下を亡くしてしまう少年の物語...いつか訳してみるかもしれません。)そして大学の時に作った長い曲も歌詞はないですが「宇宙が一旦崩壊してしまう」ことを表すような構造になっています。(これはジョジョの奇妙な冒険第6部のエンディングに影響されていたのでしょう。)とにかく私は潜在意識のレベルでこういった展開に惹かれていました。

 

しかし「世界が滅びる」ということは単に人間社会がなくなったり物質世界が壊れるという意味ではないことが分かってきました。そのアーキタイプのよりディープで内的な意味は「自己の崩壊」なのだと思います。自己の崩壊は死を指しますが、それと同時になにか新しいものが芽生える空間ができるのを意味します。もしくは、「偽りの自己」がなくなることで「真の自己」に気づく可能性が生まれます。これは自分の体験といろんな先生の教えによって分かってきたことです。「世界の終末」のイメージに憧れたりそれを美しいと感じるのは、偽りの世界の背後にある本来の命の輝きを微かにでも感じ取れるからではないでしょうか。