ラディアトーレの修理が完了した水曜日は、他にもちょっと嬉しい出来事があった。
授業のあとで以前から考えていた、アパート探しの件を事務局に相談した帰りのこと。
事務局を出ると、階段の踊り場に面した窓辺に立ってドゥオーモを眺めている男性の姿が目にとまった。
よく見るとユウジ君だ。
「こんにちは」
近づいて声をかけると、笑顔が返ってきた。
「やぁ。チャオ。・・・ハルカさんもまだいたの?」
「ユウジ君こそ。どうしたの?」
「いつも時間があると眺めてるんだ。」
あの頃のドゥオーモはクーポラ部分の改修工事の真っ只中で、小型のクレーンが一台いつも作業をしていた。
だから、クレーンなしの姿は未だ見たことがない。
「興味があるの?」
「うん。あんな作業に関わってみたいよ」
ユウジ君がどうしてアルノで学んでいるのかは、舞央さんからも聞いてなかった。
「ハルカさんは何してたの?」
「ちょっと事務局に用事があって・・・。でも、もう終わったわ。あの・・・もし、時間があったら少し話せない?」
私ったら何言ってるんだろう。
自分でも驚くほど自然に・・・心で思ったことをそのまま口にしてしまっていた。
でも、そのくらい素直に、今は日本語が通じる相手と話をしたい気持ちだった。
「いいよ。でも、急にどうしたの?」
「最近、少し日本語に飢えてて・・・変な言い方だけど。日本語で誰かと会話がしたくて仕方がないの」
ユウジ君の顔に笑みがこぼれた。
「わかる、わかる。そういう時あるよね。じゃ、行こう。前の道を真っ直ぐ行った先にバールがあったから、そこで話そう!」
スコーラ・アルノを出て右手に30メートルくらい行くと、角にちょっと感じのいいバールがあるのは知ってる。
ドゥオーモの周りは授業のあとにさんざん探索し尽くしたから。
それから、ユウジ君と私はそのバールでカプチーノとチョコラータを注文して話出した。
「どうしたチョコラータなの?」
ユウジ君は私の目をのぞきこむようにして尋ねた。
「私、こっちに来るまでコーヒーがぜんぜん飲めなかったの」
「じゃあ、今は飲めるの?」
「うん。カッフェ・ラッテならね」
「それでもコーヒーはダメなのか」
「来た頃はチョコラーターがココアのことだって知らなかったから、ラッテ・カルド(ホットミルク)を注文してたの。子供でしょ?」
「ホットミルク!?そんなの注文できるの?」
「メニューにはなかったけど、ミルクを温めてコーヒーに入れるんだから・・・もちろんミルクだけもできるはずよねって思って」
「そっか。かしこいな~」
イタリアのバールはかなり融通が利く。
これはもっと後でわかったことだけど、常連客はオリジナルメニューを注文するから、バリスタは一人ひとりのメニューを把握していて、顔をみるとすぐに用意をするらしい。生クリームをのせたり、チョコレートのかけらを入れたり・・・コーヒー文化が浸透している国だけあって、バリエーションも豊富だ。
店内は明るいブルーグレーの壁紙と同じ色の丸テーブルにオレンジやグリーンのイスが並んでポップな雰囲気だ。
フィレンツェでもこの辺りは観光客より留学生が多いから、バールでもテーブルチャージを請求していなかった。
ユウジ君は木村勇二と言って、京都では建築設計の仕事をしていたらしい。将来はオリジナルな設計を任せてもらえる建築士になりたいと願って、貯金したお金で留学を決意した。
「建築を学ぶにも基本は語学だから。とにかく半年間は徹底的に語学を勉強して、空いた時間で建築を見られるだけ見て歩こうと思ってる」
力強い眼差しで勇二君ははっきりとそう言った。
それからは、お互いが暮らしているアパートの話や、どうやって留学の手続きをしたか、そして、留学を思い立ったきっかけまで、次から次へと話題が尽きなかった。
私は改めて、自分でも驚くほど日本語を口にするという行為に飢えていたんだ・・・としみじみ感じていた。
でも、驚いたのはそれだけじゃなかった。
勇二君は同じ京都からフィレンツェに来る女性がいることを前もって知っていたみたいだった。
それもそのはず。私たちは同じ協会を通じてスコーラ・アルノへの留学手続きを行っていたのだから。
「協会の事務の辻さんって会ったことある?」
「ええ。彼女が全部手続きをしてくれたもの」
「僕もそうなんだ。実は、彼女から聞いてたんだ。僕より1カ月遅れて、留学を希望してる女性が居ることを。だから、11月にはその女の人が来るって楽しみにしてたんだけど、結局だれも来なくて。もう、来ないんだなーって思ってたよ」
そう。初めは11月にはフィレンツェに来る予定にしてたんだ。だけど、会社の引継ぎがあってどうしても年内一杯は辞められなくて、ようやく、年が明けて実現した留学だった。
「そんなことまで聞いてたの?実は初めは11月に来るつもりだったんだけど、辞めた会社の都合で延期したのよ」
「そっか。でも、それがはるかさんとは。話しててびっくりしたよ」
「私もよ。こんなことってあるんだ。フィレンツェにはたっくさん語学学校があるのに、偶然にも同じ学校を選ぶなんて」
「辻さんに薦められたんだよ。行ったこともないのに自分で決められないから」
「そうなの。実は私もいろいろ迷ったけど、最後は辻さんの言葉を信じて決めちゃったの」
「じゃあ、ふたりを引き合わせたのは辻さん・・・てことになるね」
私たちは顔を見合わせて大笑いした。
午後の時間はあっという間に過ぎてしまい、気づいたら4時半を回ってた。
「3時間以上も話してたね」
「ありがとう。日本語をこんなに話したのなんて、本当に久しぶり」
「はるかさんは本当に楽しそうに話すね」
「久しぶりに日本語を話したからテンションがあがってるのよ・・・きっと」
そして私たちは手を振って別れた。