金華山の山頂に天守閣(見にくくてごめんなさい)
岐阜城(別名・稲葉山城、金華山城)
岐阜市指定史跡
日本の名城 都道府県別ベスト10 岐阜県:第一位
構造:山城 / 岐阜市指定史跡 岐阜県ベスト1
天守閣:復興天守閣 昭和31年(1956)三層四階 鉄筋コンクリート造
築城主:二階堂行政 斎藤道三 / 築城年:建仁元年(1201)天文八年(1539)
主な城主:二階堂氏 稲葉氏 斉藤氏 織田氏
建造物:復興天守閣 復興櫓 復興城壁 等
私にとっての岐阜城 イメージは
1973年の NHK大河ドラマ『国取り物語』(司馬遼太郎)
での道三 & 信長の城!
最近の研究ですと前半の道三の物語は道三とその父親の二代記とゆうことになっておりますが…
岐阜城 略年表
建仁元年(1201):二階堂行政(鎌倉幕府政所執事)金華山の地に砦をかまえる
[ 途中 未使用時期あり ]
応永19年(1412):斎藤利永(美濃守護代)修築して在城
[ 途中 未使用時期あり ]
天文八年(1539):斎藤道三 城を再興し入城
天文17年(1548):斎藤道三 稲葉山城を斎藤義龍に譲り 鷺山城へ移る
弘治二年(1556):斎藤道三 義龍と戦い、敗死
永禄四年(1561):義龍、病死 嫡男・龍興が城主となる
永禄七年(1564):竹中重治が一時占拠
永禄十年(1567):織田信長が攻略『岐阜城』と改める
天正四年(1592):織田信長 安土に移り 嫡男・信忠があとを継ぐ
天正十年(1582):織田信長・信忠 本能寺の変で自刃 三男・信孝が城主となる
文禄元年(1592):織田秀信(信長嫡孫)が城主となる
慶長五年(1600):関ヶ原の合戦で西軍に立ち落城
慶長六年(1601):廃城 天守 櫓 石垣 等 加納城に移す
明治43年(1910):復興天守建築
(復興天守 第一号:明治以降初)
昭和18年(1943):復興天守焼失
昭和31年(1956):復興天守再建築(17.7m)
昭和59年(1984):信長の居館 発掘調査始まる(平成22年現在 第四次発掘調査中)
平成9年(1997):平成の大改修
時折 ここの天守閣は無かったとされる本もあるようですが
宣教師フロイスの『日本史』に
『金華山上の「天守」には金の鯱が輝き、
山麓には「天主」を備えた豪壮な御殿が広がる…』
と有るらしいですし
「信長は毎日天主と天守を往復していた」(山科言継の日記)
と発掘調査案内所で知りました
天守閣は有った!!
今回(2010・7・25)の登城は実に26年ぶり
前回は 登山道で登城したのですが
今回は ロープウェイを利用しました
ちなみに標高は329m
「天下第一の門」(後年岐阜市が建てた門で遺構ではありません)
「上格子門 跡」 城の攻防の地
実際の門は今はありません
「馬場跡」岐阜城郭内では唯一の平坦な土地
いよいよ本丸 入り口には
「金華山 閻魔堂」が有ります
その向かいには「題目塚」が
天守入り口には「お城時計 レプリカ?」
天守から濃尾平野方面を望む
「岐阜城資料館」(昭和50年完成)
「現存石垣」はさざれ石
岐阜城再建30周年記念事業として昭和61年一部復元
(前回来た時には無かった)
「本丸井戸」
木下藤吉郎と千成瓢箪(現地 説明書)
永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、豊臣秀吉と改称)は
蜂須賀小六や山ろくの猟師堀尾茂助など僅か七名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。
この時、藤吉郎は城兵を倒した槍先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、槍を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。以来、千成瓢箪発祥の地とされている。 岐阜市
我がデジカメではワイドレンジの関係で
天守閣のよい写真ほとんど撮れませんでした
m(_ _ )m
岐阜城:岐阜市金華山天守閣18
岐阜バス「岐阜公園・歴史博物館前」
http://www.city.gifu.lg.jp/c/40121142/40121142.html