この時期、私は必ず新潟ツーリングに出かけます。
出来るだけ下道を通り、弥彦神社へお参り、帰りは上越市でスーパー銭湯、そして帰宅というルート・・・・
・・・・・・・1回も計画通りに行った事がないwwwwwwwww
なぜなら出発時間が遅いから。
新潟はお隣といえども東西に長く、自宅から新潟市に行くのと名古屋市に行くのとはほぼ同じ距離に匹敵します。
そして今回は・・・・・・・
はい、また遅い時間に出発(笑)。1130に自宅を出たのでした。
遅れた時間を取り戻すため、高速で。
魚津IC手前2キロで・・・・・ああっ、取れた!!
何が取れたのかというと、レーダー探知機を付けてるケースの着脱部分。電源のコードがついているのですぐには飛んではいきませんでしたが、このままでは風圧で飛んで行ってしまう。
慌てて魚津ICで降り、滑川市まで戻って100均で接着剤を購入。修理してまた高速に乗ったのでした。
越中境PAで休憩。
なんだか眠たくて。
上越まで高速で行く予定でしたが、お金をケチって名立谷浜で降りました。
降りたすぐに見えた新潟の海、いい景色です!
右へ行けば上越市。一気に行きますか。
それにしても私のバイクのメーター回り。左から
・5インチナビ
・アクションカム
・レーダー探知機
ごちゃごちゃし過ぎwwwww
前傾姿勢にならないとスピードメーターが見えない。で、前傾姿勢になるとナビが見えない。下を向くと見えますが、高速道路でそんな事やってると危なっかしくて。
どうにかしなくちゃなあ。
上越市に到着。
毎年必ず行くのが春日山神社。春日山城跡にあります。
去年まではバイクごと上まで上がっていったのですが、ここのジジイに停めた場所を移動して、と言われたのがムカついた(そんな事言われてもバイク自体がでかいから簡単に移動できない)ので今年からは下の駐車場に止めて階段を上がっていきます。
ヘルメットをトップケースに入れて鍵を閉めて・・・・・・
ああっっ!!
鍵が抜けない!!!
ふたを閉めて90度回せば鍵は抜けるはずなのですが、回せない。
まいったなあ。
仕方ないのでうちまで挿したままで走りました。
神社でお参りし、ふと振り向くと
つい先日の「謙信公祭」の全参加者一覧表が。
去年から謙信役はガクトでなくなりました。
多大な招聘予算の見直し、祭り自体が謙信公祭ならぬガクト公祭になってしまっている(それだけガクトは本気で臨んでいたという事)事への実行者側の思惑、マンネリ化を一新しようとした、等いろんな考えがあったと思います。その結果・・・・・
2016年度の観光者数は前年度比40パーセント減wwwwwwwww
ガクト頼みだったツケが回ったか。内容的にはほとんど変わっていないと思います。武者行列もガクトの時に比べると閑散としています。
大いに改善の余地はあると思われます。
謙信公役・・・・村山秀幸氏
上越市長です。
武田信玄役・・・・ベロ武田??
調べると俳優さんのようです。時代劇とか多数出演経験があるのだとか。でもこの方、新潟出身ではないよう。なのになぜ?
・・・・・・・・・武田繋がりだからか(笑)
上を見上げると
上杉謙信像。
本当は城跡の一番上にある毘沙門堂まで登りたいのですが、時間がないのでカット。次へ進みます。
近くにある「監物堀」。
これは上杉氏の後に春日山城主として入った堀氏が家老の堀監物直政に命じてつくらせたものだそうです。
春日山城に対しての防御補強策の一環だったのですが、山城は何かと不便であり、結局海のそばに福島城を建て、そこの移りました。
ここは広場になっており、謙信公祭では武者行列が終わると川中島合戦の再現シーンを夜に行います。
ガクトはここでも馬に乗って一騎打ちのシーンに出演していたのですが、今はおそらくスタントマン的な役者さんがやっているのでしょう。
そういえば昔、このシーンを見てから大急ぎで着替え、車をかっ飛ばして松本市まで行き、74式さん達と合流して富士総合火力演習を観に行った記憶があります。
いやあ、このころは元気だったなあ(゜o゜)
弥彦神社を断念したので今回は春日山周辺を重点的に。
次は林泉寺。
上杉謙信の出身、長尾家の菩提寺であります。
創建が1497年、開基は長尾能景(謙信の祖父)です。
受付のおじいちゃんの応対がえらく丁寧でした。
たぶんこれは山門
これが本堂で右手に宝物館があります。
宝物館では上杉謙信のみならず江戸時代、懲罰的な移封で高田城主になった榊原氏の甲冑なども展示してありました。
榊原氏・・・・・徳川家康の四天王だった榊原式部大輔康政公を祖とする屈指の譜代大名であります。
一時は越後村上へ左遷させられた榊原家ですが、また姫路城主に復活します。
しかし、8代政岑公の時に奢侈なふるまいが多く、高尾太夫の一件(吉原の遊女、高尾太夫に一目ぼれして財政難にも関わらず身請け、歓待等の費用で3000両を費やした)がとどめを刺し、8代将軍吉宗の怒りを買い、石高はそのままで済んだものの、政岑公は強制隠居、次代政純公が後を継ぎ、姫路から越後高田へ左遷させられたのでした。
改易・減封処分にならずに済んだのは家臣の奔走と藩祖康政公の幕府への多大な貢献・徳川四天王の名門の家柄を考慮されての事なのでした。
結局榊原家は明治維新まで高田藩のお殿様でした。
奥の方にはこのあたりを治めた大名のお墓があります。
上杉謙信。
堀秀政、秀治、秀重(秀政の父)。
榊原政岑。
松平綱賢。
松平土佐(綱賢公の実母で毛利秀就の娘)。
この後は高速に乗って柏崎へ。
枇杷島城跡へ行きました。
枇杷島城・・・・上杉家臣の宇佐美氏の居城でした。
宇佐美駿河守定満が城主だったのですが、上杉謙信の治世には70歳を越えていて、隠居生活だったとか。
宇佐美駿河守といえばよくドラマで「宇佐美駿河守定行」という人物が出てきます。上杉謙信の軍師役として登場し、作中では大活躍しますが、この時の城主は”定満”。息子は二人いましたが「定勝」と「勝行」。
ちなみに定勝は早世、勝行は上杉家では冷遇されて出奔しています。
関ヶ原合戦時の上杉遺民一揆(越後奪還を企図する会津の上杉景勝が上杉家移封後も越後に多数残留していた旧上杉家臣を煽動し、新領主である堀氏の各城を攻撃させた一件)では長尾・竹俣・加地・松本等の名前と共に宇佐美勝行という名前が出てきます。同一人物と思われます。
端的に言うと「宇佐美定行」なる人物は存在しない可能性大、という事なのです。
なぜ架空の人物が実在するかのように出回ったか?
江戸時代、紀州藩に仕えていた大関某という藩士がいて自分は宇佐美定行の末裔と称していました。
彼は「北越軍記」「越後軍記」なる物を書いていたのですが、当時紀州藩では上杉流軍学が流行っていました。幕府に対して反抗心むき出しな藩主徳川頼宣(家康の10男)、幕府が武田流軍学を取り入れているのに対抗して上杉流軍学を取り入れたようなのです。
で、それに加担していた大関が自分のおこないを正当化する為に宇佐美定満をモデルにした宇佐美定行という人物を創作し、自分はその子孫だと言い出したというのが近年の説です。
じつは枇杷島城跡、柏崎総合高校の敷地内にあるのです。
校舎内から先生らしき方が出てこられたので「枇杷島城跡ってどこですか?」と先手を打って聞き、教えてもらいました。
ウロウロしていると変質者と勘違いされかねません。写真を撮ってそそくさとその場を去った私なのでした(笑)
この後はこの日最大の決戦場へ・・・・・・
続く




























































