会社の移転
昨日、富鴻国際公司の物業から連絡・・・こちらから確認電話して良かった。
ここ5階の賃貸事務所の契約は、5月で終わりますが、契約継続不可能となりました。
ここの部屋を第三者会社に転売したそうです。
昨年は、ツイ友会社は、数週間前に退去を告げられてましたから、弊社の場合、まだ余裕あります。
が、5階に130平米/23階に150平米を借りてますが、次はどうしよう・・・・・?
悩む毎日が続きそうです。
逐次、報告します。
再見
亜細亜号
マッタリ食事の後、会社通訳を引き連れて、念願の亜細亜号見学へ・・・
場所は、勝利橋を渡り、すぐ右のわき道に進みます。

二個目の踏み切りの右角の会社です。

ここは、一般開放しないようです。会社通訳存在で助かりました。
あなた方は誰?・・・私は中国人、この日本人の案内です。
では、日本人@40元頂戴します。
今、鍵開けますから少し待って下さい。・・・こんな会話がありました。
個人でも料金支払えば可能と思います。
この鍵を開けてくれた会社女史の電話番号をもらいました。
次回から、ご希望の折は、因達科邦人旅行会社に連絡下さい。笑
鍵を開けて頂き倉庫?中に入ると目の前にドォ~ンと亜細亜号の勇姿です。
まずは感動です。日本語説明図をじっくり読みました。
写真で感動が伝わるかな・・・?

亜細亜号
亜細亜特快列車は日本南満州鉄道株式会社に所属し、有名な列車です。1934年から1943年まで南満路線の新京と大連区間に運行しました。
1935年9月1日に運行区間をハルピンまで延ばしました。
1934年(満州康徳元)3月1日、特快「亜細亜」号は運行を始めました。新京から大連まで701.4キロメートルの距離で7時間半だけ掛かった記録を作りました。途中停車駅は、大石橋、鞍山、奉天と四平四つの駅でした。亜細亜号の牽引車両は黒色で、客車は茶色で、列車全体は流線型で、座席に自動ボタンが付いて、米式エアコン装置も付きます。
満鉄は亜細亜号を特急列車と定義しました。列車は6両編成で、機関車の後ろに貨車、三等車両を二つ(定員88人)、食堂車、二等車両一つ(定員68人)と一等流線型展望車両一つ(定員48人)。全部で二組があり、毎日午前から新京と大連に当時(誤植:同時)に出発しました。
大連と新京の701.4キロメートルの間に8時間30分をかかり(中途停車しない)、平均運行スピードは一時間85キロメートルでした。(当時日本の特快スピードは70キロメートル)。列車運行中最高スピードは130キロメートル、当時日本鉄道省のスピード95キロメートルの列車より早いでした。
亜細亜号を牽引する機関車亜細亜757号(当時はパシナと呼ぶ、解放後は勝利SL-7と呼ぶ)は当時世界に一番早い蒸気車の一つでした。動力車輪は直径2メートル、先頭外部は流線型です。日本川崎重工業株式会社は3台を製造し、大連沙河口満鉄車両場は9台組立てました。全部中国東北に運行し、戦争後は中国に所属しました。現在、亜細亜号の牽引車両(SL-7)は、現在751号と757号2台があり、瀋陽蒸気車博物館と大連科潔鉄道大修公司に陳列しています。
亜細亜号等特快車は快適であり、昔は官僚界に使われていました。太平洋戦争の悪化とともに、亜細亜号は1943年に運行を停止しました。
蘇家沌機械区域 1981年5月
亜細亜号757機関車元の名前は(Pashina or PASHI-7)、意味は4-6-2車軸配列するの第七号形です。1934年、日本川崎重工業株式会社と南満鉄沙河口工場に製造されました。全部で12両があり、3両は日本川崎重工業株式会社に製造され、後は海運で大連に運びに来ました。757機関車は日本製機関車です。直径2メートルの大動輪と流線型の車体は大連から新京まで701.4キロメートル特快亜細亜号です。当時亜細亜鉄道の中に一番豪華的にスピードが一番速い特快列車でした。新中国が成立した後、この列車の状況は外国に秘密にしました。1970年代、この機関車はまだ走っている事を数人の鉄道ファンが発見しました。1980年代に日本の新聞はこのメッセージを発表して、日本で大騒ぎを起こりました。現在、環境と時代の発展で、この機関車は倉庫に止まって観光物となってしまいました。





ちゃっかり運転席に座ってます。



















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再見
場所は、勝利橋を渡り、すぐ右のわき道に進みます。

二個目の踏み切りの右角の会社です。

ここは、一般開放しないようです。会社通訳存在で助かりました。
あなた方は誰?・・・私は中国人、この日本人の案内です。
では、日本人@40元頂戴します。
今、鍵開けますから少し待って下さい。・・・こんな会話がありました。
個人でも料金支払えば可能と思います。
この鍵を開けてくれた会社女史の電話番号をもらいました。
次回から、ご希望の折は、因達科邦人旅行会社に連絡下さい。笑
鍵を開けて頂き倉庫?中に入ると目の前にドォ~ンと亜細亜号の勇姿です。
まずは感動です。日本語説明図をじっくり読みました。
写真で感動が伝わるかな・・・?

亜細亜号
亜細亜特快列車は日本南満州鉄道株式会社に所属し、有名な列車です。1934年から1943年まで南満路線の新京と大連区間に運行しました。
1935年9月1日に運行区間をハルピンまで延ばしました。
1934年(満州康徳元)3月1日、特快「亜細亜」号は運行を始めました。新京から大連まで701.4キロメートルの距離で7時間半だけ掛かった記録を作りました。途中停車駅は、大石橋、鞍山、奉天と四平四つの駅でした。亜細亜号の牽引車両は黒色で、客車は茶色で、列車全体は流線型で、座席に自動ボタンが付いて、米式エアコン装置も付きます。
満鉄は亜細亜号を特急列車と定義しました。列車は6両編成で、機関車の後ろに貨車、三等車両を二つ(定員88人)、食堂車、二等車両一つ(定員68人)と一等流線型展望車両一つ(定員48人)。全部で二組があり、毎日午前から新京と大連に当時(誤植:同時)に出発しました。
大連と新京の701.4キロメートルの間に8時間30分をかかり(中途停車しない)、平均運行スピードは一時間85キロメートルでした。(当時日本の特快スピードは70キロメートル)。列車運行中最高スピードは130キロメートル、当時日本鉄道省のスピード95キロメートルの列車より早いでした。
亜細亜号を牽引する機関車亜細亜757号(当時はパシナと呼ぶ、解放後は勝利SL-7と呼ぶ)は当時世界に一番早い蒸気車の一つでした。動力車輪は直径2メートル、先頭外部は流線型です。日本川崎重工業株式会社は3台を製造し、大連沙河口満鉄車両場は9台組立てました。全部中国東北に運行し、戦争後は中国に所属しました。現在、亜細亜号の牽引車両(SL-7)は、現在751号と757号2台があり、瀋陽蒸気車博物館と大連科潔鉄道大修公司に陳列しています。
亜細亜号等特快車は快適であり、昔は官僚界に使われていました。太平洋戦争の悪化とともに、亜細亜号は1943年に運行を停止しました。
蘇家沌機械区域 1981年5月
亜細亜号757機関車元の名前は(Pashina or PASHI-7)、意味は4-6-2車軸配列するの第七号形です。1934年、日本川崎重工業株式会社と南満鉄沙河口工場に製造されました。全部で12両があり、3両は日本川崎重工業株式会社に製造され、後は海運で大連に運びに来ました。757機関車は日本製機関車です。直径2メートルの大動輪と流線型の車体は大連から新京まで701.4キロメートル特快亜細亜号です。当時亜細亜鉄道の中に一番豪華的にスピードが一番速い特快列車でした。新中国が成立した後、この列車の状況は外国に秘密にしました。1970年代、この機関車はまだ走っている事を数人の鉄道ファンが発見しました。1980年代に日本の新聞はこのメッセージを発表して、日本で大騒ぎを起こりました。現在、環境と時代の発展で、この機関車は倉庫に止まって観光物となってしまいました。





ちゃっかり運転席に座ってます。



















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再見












