「スーツは着ないんですか」と以前通っていたショップの店長に尋ねたことがある。当時30を回っていて、歳柄か自分にも必要なものに思えてのことだった。現在私服制服ともにスーツを着用することはなく、三つ四つ下だったその店長も、まだ遠慮するといった様子で必要とせず、後に仕事をしばらく変えては着用していたけれど、その期間が済めば再び他の物を着ているようだった。そしてスタイリストを目指していたため、スーツを着ることは少なそうだった。制服のように着用する人は多くとも、アパレル業では一端に過ぎないと考えている。
かつて勤め先に居た人が言っていた。スーツが苦手だと。多分に窮屈に感じているように。自分も歳柄一着は用意しておくべきかと考えるものの、着やすいものかと問われると同様の感想を述べてしまいそうになる。少なくとも毎日着たいものではないだろうと。と同時に、段々とTシャツとジーンズといった格好も、馴染めない思いを強くするようになっていた。手足が細くもあり、いつまでも幼い子供のままでいるような居心地の悪さを覚えていた。そういう時にはピカソの描いた、犬を連れた子供の絵を思い出すことになる。その幼く痩せこけた、貧しい顔をした男の子を。
去年の春までファッション関連の教育機関に通っていて、クラスメイトの一人(女の子)が異性のタイプにスーツの人を挙げていた。自分も歳柄必要に思ったりするように、同感することになった。それは同時に雇用形態で言えば、制服と書くように、正社員(あるいは正職員)を現わしていることが連想された。そこには収入の意味も含まれる。以前会計事務所に転がり込んでいたためか、社会保険の加入なども付け加えて思うことになる。要するに自分より出世している人と考えては。
遡れば十年ほど前にはまだ学生をしていて、就職活動期のまっ只中にいた。けれど自分はその就職活動を放り出して、卒業に足りなさそうな単位を取得するため、活動の始まっていない頃と同じペースで通学を続けていた。とは言えもはや就職活動を放棄したように、その頃にはもう大した当てのない日々を送りもしていた。学内の図書館で雑誌を捲ったりしながら、無為とも言える時間を過ごしていた。そして用事がないものだから、図書館の利用も簡単に留まるばかりだった。
そんなことをしていると、三階の視聴覚資料室で一人の女性を見かけることになった。置いてあるCDを見せてもらおうと思い立ち寄ってみたのだけれど、外に置いてあった棚に目ぼしいものはなく、室内を窺った時のことだった。受付に座っていて、よくは知らないものの、場所柄まずは司書と考えることになった。しかしその視聴覚資料室も利用することはなく、すぐにその場を後にして、あとはいつものようにまた当てのない時間を過ごしていた。
以後何度か、当然とも言える形でその人を館内で見かけることになった。ある時は蔵書を書架に戻している姿や、別の時には貸出しカウンターに座っている姿などを。それから一度だけ、三階から二階に下りて来るところ、隣にスーツを着ている大学職員(と思われる男の人)を連れていた。階段のなかんずくで立ち止まっては、自分と少し目が合ってから、その隣の人を表情もなく眺めていた。意図がよく分からず、不可思議な光景のように記憶している。二人して言葉を交わすこともなかった。そしてまた階段を下りては階下に消えていった。そのスーツを着た男の人の方は、キャンパスの別のところでもう一度見かけることになったが、やはり意味のようなものはなくすれ違う程度だった。ちなみにその司書と考える女性の方は、古風とも言えそうな長いスカートを穿いて、それは当時他に見かけることのないものだった。それは不可思議な記憶を殊更強くしている理由のようでもあった。もう一人はスーツを着ていたわけだけれど、その頃の自分にとってスーツは、就職活動による決まりの範疇を出ないものだった。
歳柄必要かと思うのは、けして仕事を指してのことではなかった。どちらかと言えばそれはフォーマルな装いという認識とともにある。簡単に言えば冠婚葬祭のような場のドレスコードと考えて。二十代はTシャツを着てチューハイやビールをその辺りで引っかけていたところでそれほど咎められることもないだろうし、何と言ってもそれが若さだと思ったりする。言葉を借りてもう少し言えば、何をしていても背中に翼が生えているようなものだと。あるいはスーツは背中に翼の生えている奴にはまだ早いのかもしれない。
母校の大学がクリスチャンで、履修が必須とされる講義にはキリスト教の教えを交えたものがあった。宗教的なことを念頭において選択した学校ではなかったので、受講する理由も卒業に欠かせないことぐらいしかない。その内容もほとんど覚えていない。とは言え旧約聖書か新約聖書か、アダムとイブの話は時折思い出すことになる。知恵の実を食べて下界に追放された(あるいは堕落した)くだりを。そして知恵の実を食べて追放されたと聞いて、簡単に人が知恵を身に付けることを思っては、それについて愚かさを説いているのだろうと思うことになった。つまりそれは知ったと言うより、知ってしまったと言うべきなのだろうと。下界に追放されたアダムとイブは、おそらくは衣服を身にまとう以後だったと記憶している。もはや無垢でもなく裸でもなく。さらにスーツに思うことがあるなら、人を最も包み隠してしまう装いとなるだろうか。そしてフォーマルな見方が強いように、公的な場での着用が必要とされもする。もちろんその場で私人の姿や言動は控えられることになる。それは慎ましやかに、翼を畳むことを意味しているのかもしれない。小学校の頃に勇気一つで空へと向かうイカロスの歌を授業で合唱したりしたけれど、彼が背中に付けた翼は蝋で固めた作り物だった。天使のように生まれながらにして具わっているものではなかった。蝋の翼では天に届かず墜落したように、作り物で天に近づくなど以ての外といった見方がある。それはバベルの塔がその完成を間近にして神の裁きに遭ったことと似ている。人間が知恵を以て何を作り上げたところで、それは天に届かないと諭すかのように。イカロスが地上に落ちた後どのような末路を辿ったのかは覚えていない。あるいは二度と翼を広げることなく地平をとぼとぼと歩き続けたのか。
軽やかに空を舞うためのものではないように、慎ましやかに、非礼のない姿とともにスーツはあると考え、それは相手に障らないことを意味する。振り返ると二十代はまだ翼を有していることになるけれど、暖冬のためか春物商戦の前倒しなんかを思ってしまう今日この頃とともに、新卒社会人のスーツも間もなくだなと一人思うことになる。そして自分もそろそろ仕事で着ているダウン・ジャケットともおさらばかと、やっぱり一人思うことになる。