「小沢をやれば、一生飯が食える。」 東京地検特捜部検事の合言葉だ。
「検事は欲深い。」 無罪を勝ち取った村木元局長の言葉。
人間は誰しも我利我利であり、底なしに欲深い。
しかし、その煩悩の火をあおるのは、「最強」といわれる地検特捜部が「強制捜査権」と「公訴権」を一手に握っているからだ。
それは、目をつければどんな無実の者でも、証拠が無くても、証拠を改竄してでも、犯罪者に仕立てあげることが出来ることを意味する。
その特捜検事が「功績」を挙げようと、都合の良い供述調書を作り出すための密室での取調べは、騙し、脅迫、時には拷問と言えるほど悲惨を極める。
たとえばサッカーの試合。
みなルールを守って試合が成り立つ。しかし、手も足も自由に使え、どんなことをやってもかまわない選手が1人加わったらその試合はどうなるか。
そんな危険な検察をチェックする機関もない。
だから日本の有罪率は99.9%を越える。こんな国は先進国でも例を見ない。
大阪地検の改竄事件は起きるべくして起きたし、氷山の一角だろう。
足利事件、氷見事件のように、幸いにも冤罪が証明されればまだよいが、「最強」の特捜部の名誉欲と利益欲・政敵・「外国の意向」によって、無実の罪をでっち上げられ葬られた国会議員、首長、経済学者も少なくないし、無実の罪で死刑を執行された一般人はどれくらいあるだろうか。
何十万、何百万の国民からの支持を得、公正な選挙で選ばれた国民の意志の代表が、ペーパー試験に合格したにすぎない、ほんの一握りの「官僚」に潰されてしまう。まさに三権分立を破壊している。
その検察の暴走を支えているのが、記者クラブ所属のマスコミによる、検察リークの垂れ流しだ。
推定無罪の原則を無視し、世間に「悪者」「犯罪者」のイメージを土石流のように流して「世論」を動かし、検察を正当化する。もはや「社会の木鐸」の使命を放棄してしまった。いや、それどころか、「権力の犬」に成り下がってしまった。情けないかぎりだ。
つくづく日本は恐ろしい国と思う。
「キチガイに刃物」
ふと浮かんだ言葉だが、言い過ぎだろうか・・・。
仏様から見れば、人間は誰もみな欲深く我利我利の「キチガイ」に違いない。
しかし、だからこそ、そんなものに危険な「刃物」を持たせてはならないのだ。
官僚の頂点である検察の暴走、マスコミの偏向。
「(明治、山県有朋が官僚制度を構築してより今日まで、連綿として続くところの)官僚政治の打破」、「検事総長の国会同意人事化(によるチェック)」、「取調べの可視化」を表明する、政権交代の立役者たる小沢の、ブレない政治的信念と政治的力量を畏れ、断固阻止せよと、重箱の隅をほじくるような、しかも違法でも何でもない収支報告書の「期ずれ」を、「政治資金規正法違反の罪」だとデッチあげ、電波利権、記者クラブ利権を守ろうとするマスコミが手を組んだ。
そして、このたびの検察審査会の暴走。
検察のメンツにかけて、推定30億円とも言われる税金を投入し、1年間捜査しても起訴できなかったものを、法ではなく、作られた「印象」が密室で人を裁き責任もとらない。
冤罪を生む新たな悪縁が増えた。
検察の尻馬に乗って離党勧告だ、証人喚問だと他人事のように騒ぐ国会議員も、のん気なものだ。
証人喚問さるべきはほかならぬ、検察のほうである。国民の税金で仕事をさせている官僚を監視し、税の公正な執行を監督をするのが国民の代表機関たる国会である。検察こそ国会で「説明責任」を果たさねばならない。
我々は政治家でも、何でもない。一親鸞学徒だ。
「いつの世も、いずれの里も、真実を説く者には、迫害はつきものだということだろう。」(真仏房)
しかし、親鸞学徒に限らず、誰でも、いつ危険な「刃物」に襲われるか分らないご時世となった。
我々の布教活動の自由、信教の自由といった基本的人権を守るためには、検察、検察審査会の暴走を止め、警察国家を作らせてはならない。
かつて来た道をたどってはならないし、それ以上でも、それ以下でもない。
そして、我々もスキを与えないよう、心せねばと思う。