あの日から・・・。

あの悪夢のような日から3年の月日が流れた。

あの日のことは今も鮮明に覚えているし、あの時の事を考えると今でも体が震える程の恐怖心が一瞬にして蘇ってくる。

けれど、時々、あれが現実に起きた事なのか分からなくなる事がある。

今、自分が置かれている状況や取り巻く環境があまりにも穏やか過ぎて、あの悲しみしかなかった日々に手探りで歩いてきた道と、今自分が歩んでいる道とが本当に同じ一本の道なのかが分からなくなってしまう。

私が暮らす地域は、津波の被害には遭わなかったが、それでも地盤沈下によって周辺の道路はいたるところで波打ち、また地震の揺れによって全壊や半壊をした家屋も多い。震災前は想像すらしなかった住み慣れた街の光景を見るたびに、やりきれない気持ちや悲しみが込み上げてきた。

震災から一年、二年と時の経過と共に、景観はだいぶ良くなったが、地震の爪痕を目にすることが少なくなったのは、つい最近のことだ。

再建自体を取りやめてしまった店舗や、今現在も建設中のビルもあるが、震災から3年が経過し、取り壊された家屋の跡地には新築の家が立ち並び、新しい街並みができつつある。

震災前の風景を思い出すと、なんとも言えない寂しさを感じてしまうが、地震の爪痕を見て悲しみを感じるよりは、精神的には随分楽になった。

大切な人たちを失った悲しみや後悔は、相変わらず心の中にあり続けているし、津波の被害に遭った地域に行ったり震災当日の映像を見れば、一瞬にして心が振り出しに戻されてしまう気がするけれど、それでも最近は着実に一歩、一歩と、気持ちが前へ向かって進み出している実感はある。


3月9日。

名取市役所に設けられた献花台に、亡くなられた方々のご冥福をお祈りする為に出向いた。

そして、その後、閖上の祖父母が住んでいた自宅跡地へ向かった



実は数ヶ月前に、車で閖上を通過しなければならない事態が起こった。

いつかは祖父母の自宅があった場所へ行き、二人が亡くなったその場所で手を合わせたいという思いは常々あったのだけれど、その時はあまりにも突然の事で、心の準備をする暇など全くなく、パニックを起こし号泣しながら祖父母の自宅跡地のすぐそばの道を通ったものの、立ち寄らずにそのままその場所を離れた。

その時から、日を追うごとに祖父母が亡くなったその場所で手を合わせたいという気持ちが強くなっていった。けれども、その度にとてつもない恐怖心に襲われて諦めた。

数ヶ月が過ぎて3月に入り、祖父母の自宅跡地に行って手を合わせたいという気持ちは、行かなければならないという気持ちに変化した。

恐怖心が消えた訳ではない。それでも・・・どうしても行かなければならない気がした。

(今度こそ・・・。)閖上へ行くことを決めたのはいいものの、ただ一つ問題もあった。

名取市役所へ一緒に行く母をどうするか・・・。

一度実家まで戻ってきて母を降ろしてもう一度行く事もできるが、再び車で出かけようとすれば、何処へ行くのかを聞かれるはず。

閖上という地名を出せば、母の心にできた傷をえぐってしまうのではないか・・・。でも、もしかしたら、母も私と同じように祖父母の亡くなった場所で供養をしたいと思っているかも知れない・・・。

色々と不安はあったが、やはり前もって閖上へ行ってこようと思っていることを話さなければいけないと思った。

なかなか言い出しにくかったけれど、なんとかそれを話すと「閖上は怖いから、できれば行きたくないけどね、でもあなたがそんなに行きたいと思うなら、お母さんも行くわ。」とのこと。

無事、閖上行きが決定したけれど、当日までは「やっぱり怖いねぇ。」「行っちゃえばそうでもないんだろうけどねぇ、行くまでが怖いねぇ。」「目印になるようなもの何もないけど、辿りつけるかねぇ。」「もう何にも残ってないってのは分かってんのに、何にもないのをこの目で見んのはやんだねぇ。」って、二人で怖い怖い、怖い怖いってばっかり話してた。

怖いっていうのは、そこが津波が来た場所で、もし滞在中に津波が来たら自分たちの命が危ないからという訳ではない。

もちろん、それもあるのだけれど、私が本当に怖いのは、もう一度祖父母が亡くなったという事実と向き合わなければならないこと。

あの日、この地のこの場所で、大好きだった二人がこんな最期を迎えたという現実を、嫌でも思い知らされること。

3年かかって癒えてきた心の傷が、一瞬にして元に戻ってしまうかも知れないこと。なんだろ・・・。うまく説明できない。

とにかく、怖い怖いと言いつつも当日になり、名取市役所で献花をしたその足で、私たち家族は閖上へ向かった。

しばらく車を走らせると見慣れた歩道橋が見えてくる。けれど、見覚えがあるのはその歩道橋くらいで、そこから少し先へ進めば懐かしさや震災前の面影など何一つ残されていない悲惨な光景が続く。

当然のことながら目印になるようなものや、祖父母の自宅を示す手がかりになるようなものなど何一つない。

目の前に広がるのは、まるで草原のように草が生い茂る広い広い更地。

GPSを頼りに、目的の場所を探す。

なんとか辿り着いたものの、本当にその場所であっているのか不安は消えない。

だって、本当に何もないのだから・・・。右を見ても、左を見ても、向かい側を見ても、ただただ空き地が続いているだけなのだから・・・。

車を降りた私は、雑草に占領されたその空き地に祖父母が住んでいた家の形を思い描く。

(きっと、この辺りが駐車場で、多分この辺りが玄関だったはず・・・。二人の遺体は玄関付近で発見されたと聞いたから、きっとこの辺りで最期を迎えたんだね。)

玄関があったと思われる場所へ近づき、しゃがんで手を合わせる。

(遅くなってごめんね。やっと来れたよ。今までずっと来れなくてごめんね。)

その後、祖父へ謝りたかったこと、祖母へ伝えたかったこと、そして二人が今も天国で仲良く暮らしてくれていることを祈った。

この3年間、私にとってこの閖上の地は、世界中のどんな場所よりも遠い場所だった。

車を使えばほんの3、40分の距離しかないはずなのに、とても遠く感じて辿り着くまでに3年もの時間がかかってしまった。

ようやく、行くことができた。

胸の奥にずっと引っかかっていた物が、すっと取れていくような気がしたが、それでもやはり後悔だけは消えて無くなることも、薄れていくこともなかった。

再び周りの景色に目を向ける。

変わり果てた町並みを見ても、ため息しか出てこない。

遠くに、私たちと同じように喪服を着て自宅があったと思われる場所で手を合わせる家族が見えた。

(あの人達もこの場所で大切な誰かを失ったのだろうか・・・。)

そう思った瞬間、この場所の至るところに溢れる悲しみに耐え切れなくなって、慌てて車に乗り込んだ。

閖上を離れれば、気持ちも落ち着きを取り戻した。

誰からともなく、ポツリポツリと祖父母の思い出話を始める。

「じっちもばっぱも、○○()が来てけで喜んでっちゃ。じっちもばっぱも○○の事ば、一番めんこがったもんなあ。」と母が言う。

「だよね。」と返事すると、続けて母が喋る。

「んだっちゃだれ。ほら、△△叔母さんのお葬式の時、じっちショックと元々あった体調不良で倒れたっちゃ?」

「そうそう。お葬式に行ったら、あんだのとこのお爺さん具合悪くして別室で横になってっから行って見てけろって言われてね。んで、その部屋にいったら、親戚やら叔母さんやら従姉妹やら、みんなで布団に寝てるじっちのこと囲んで心配そうに見ててね。」

「んだんだ。みんな心配して、じっち大丈夫?って声かけても布団ば頭まで被って、うんうん頷くだけでね。○○○とか、○○ちゃんとか孫たち声かけても、私が声かけても頷くだけだったのにさぁ、○○()が来たっけ『ん!?○○か!!』って、布団めくってガバッって起き上がってさ、みんなに『なんだべ、じっち~。○○きたっけ、起き上がったっちゃ~』って大笑いされたよなぁ。そんだけ、○○のことは、めんこかったんだべな~。」

大笑いしながらも、懐かしさと寂しさに目が潤む。

帰りの車中は、そんな調子で思い出話に花が咲き、泣いたり笑ったりしながら祖父母との記憶を辿った。


3月11日。

祖父と祖母の3回目の命日。

この日は、朝幼稚園に子供を送って行った帰りに、おいしいと評判の近所のお餅屋さんに寄って、祖父と祖母にお供えするお菓子を買った。

店番をしていたお婆ちゃんと、ちょっとの間お喋り。

失礼な話だが、笑うとしわくちゃになるお婆ちゃんの顔に亡き祖母の面影を重ねてしまい、お婆ちゃんが掛けてくれる温かい言葉にいちいち目が潤む。

もっとお婆ちゃんとお喋りしていたかったが、午前保育で帰ってくる娘のお迎えの時間が迫っている事を思い出し、慌てて実家に向かった。

お供えをして、お茶を飲みながら母が話す。

「これで良かったんだよねぇ。震災がなかったら、二人一緒には死ねなかったもんね。ばっぱ、じっちが先に死んじゃって一人になるのは絶対嫌だってよく言ってたもんね。だからといって、じっちを置いて先には死ねないっても言ってたもんね。」

「うん。ばっぱ、じっちと一緒に死ねるなら幸せだって言ってたんだもん、幸せだったんだよきっと。」

もう何回、繰り返したんだろう。

命日の度に・・・

命日だけじゃない。急にどうしようもなく悲しくなった時、二人に会いたくて寂しくなった時・・・

何度も何度も同じ話を繰り返しては、これで良かったんだと確認する。そうすることで安心するんだ。二人の人生は幸せだったんだって。そして今も天国で幸せに暮らしているんだって。


震災から3年。

二人は今も一緒に寄り添っているだろうか。

天国で仲良く笑っているだろうか。

震災から二年の月日が流れた。

あの日、失ったものはあまりに多く、その分だけ悲しみは深い。

失ってからしか気付くことができなかった当たり前のものが当たり前に存在してくれる幸せ。

これまでの自分が、どれほど恵まれていたのかを痛いほど実感した日々。


大切な人たちを守れなかった後悔・・・。

そして、大切なことを伝えられなかった後悔を繰り返す毎日。

前を向いて歩き出すことなどできないでいた。

後ろを向くどころか、後ろへ向かって歩き出した日もあった。

時間が解決してくれる・・・。

そんなふうに思い込んで、ただひたすら時間が過ぎるのを待ち続けたこともあった。


津波に破壊された町並み。

地震で崩壊した家、道路。

遺体安置所で見た残酷な光景。

悲しみに泣き叫ぶ人々。

二年経った今でも、昨日のことのように思い出す。

その度に、胸が締め付けられるような思いをするけれど・・・。

辛い記憶ばかりではなく、在りし日の祖父母との思い出を穏やかな気持ちで懐かしめるようになったのは、二年という時間がもたらしてくれたものなのだと思う。


あの日から二年が過ぎ、震災に関する報道もだいぶ少なくなってしまった気はするが、地元の新聞やテレビでは相変わらず毎日のように震災関係の情報を目にする。
この二年の間、震災直後には知らなかった話も沢山知ることができた。

今、改めて思うのは、現在の自分の生活があるのは、沢山の人たちの思いやりや優しさ、そして支援してくださる温かい心の上に成り立っているのだということ。

こうしてあの日からの日々を一つ一つ振り返ると、本当に多くの方々にお世話になったなぁと感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。

食料や義援金を送ってくださった方々。物資を運んでくださった方々。救助や救出に携わってくださった方々。数々の復旧工事の応援に駆けつけてくださった方々。ボランティアに来てくださった方々。遺体安置所でお世話になった方々。犠牲者の為にとお経を上げてくださったお坊さんたち。励ましの言葉をくださった方々。心配をしてくださった方々。ここには書ききれないほど沢山の・・・私たちを支えてくださった全ての方たちに感謝しています。

また、
祖父母の遺体を見つけてくださった南アフリカ部隊の方々。道路が寸断されているからいつになるか分からないと言いつつも、頼んだ翌々日には親戚に食料を届けてくださったクロネコヤマトのドライバーさん。精一杯の対応をしてくださった葬儀場の方々。行き場のない祖父母のお骨を預かってくださったお寺のご住職様。祖父母と親しかったからと毎日祖父母を供養してくださってる別のお寺のご住職様。自分だって大変なのに、私を心配してメールをくれた友達。自分達だってギリギリの生活だったのに、子供がいるからと食料を持ってきてくれた沢山の友達。安置所に通うのに必要だからと、ガソリンを分けてくれた友達。ガソリンがまだ車に入ってるからと、わざわざ山形まで行って子供のおむつ等を買ってきてくれた友達。「お風呂に入りにおいで。」と声を掛けてくださった旦那の会社の社長と奥さん。泥だらけになりながら祖父母の遺品を探してくれたIさん。今も、月命日ごとに祖父母のお墓参りをしてくれているR君。「大丈夫だったか?」「頑張ろうね。」と声をかけてくれた近所のおじちゃん、おばちゃん。私の話を聞いて一緒に泣いてくれた、どこかの知らないお婆さん。

本当にたくさんの人達に感謝しています。本当に、本当にありがとうございました。

普段、何事もなく平和に暮らしていると、当たり前かのように存在している幸せに気付けなくなってしまう時がある。

人に限らず、命あるものはいつかはやがてその生涯に幕を下ろす日が来る。けれど、今日一日何事もなく過ごす事ができると、当然のように明日や明後日もやってくるものだと思ってしまう。

大切な人は一年先も二年先も、そこに居てくれるものだと信じて疑わない。

いつかは終わりが来ると分かってはいても、それはずっとずっと先の遠い未来のことだと思い込んでいる。

今日、自分の命が尽きるかも知れない。明日、突然大切な人を失うかも知れない。

震災を経験するまでは、あまり考える事がなかった気がする。

あの日、様々な思いを抱えながら亡くなっていかなければならなかった沢山の人達のこと・・・。そして、今の自分があるのは支援してくださった沢山の方たちのおかげで成り立っていること・・・。この二つだけは、生涯忘れずに生きて行こうと思う。

今日という日を生きていられる奇跡に感謝し、一日一日を大切に・・・精一杯生きていきたい。
震災があってからというもの、海に対しては恐怖心しか抱かないようになった。

大切な人達や、大好きだった場所を、一瞬にして奪って行った津波・・・。


あの日の津波の恐怖を、どうしてもぬぐい去る事ができず、ただただ恐ろしいという感情に支配された私は、震災後はずっと、海に近寄る事を避けて生活をしてきた。


海だけじゃない。
津波で浸水した地域にさえ、立ち入る事ができなくなった。



震災前は、海が大好きだった。

夏の間は、毎週のように海へ出掛けていたし、寒い冬の間でも、海を見たくなれば、海岸まで車を走らせることも多々あった。


二十歳の頃、日光アレルギーを発症してからは、真夏の海岸で水着を着て海水浴・・・なんて事はできなくなってしまったけれど、日が傾いてから海岸を散歩したり、車の中からボーっと、波を見ているだけでも満足だった。


けれど、あの日を境に、海に行きたいと思うことも、見たいと思うことも、一切なくなってしまった。



そうは言っても、母方のご先祖様のお墓参りや、親戚の居る鮎川へ行くには、海沿いの道を通って行かなければならない。


なんとか、鮎川へ辿り着けたとしても、そこもまた目の前には海がある。



一生、海を避けて生活をしていく事はできない。


それは、分かっている。でも、怖い・・・。





去年のお盆に、親戚から「危ないから、今年は絶対に来るな。お墓も墓石がめちゃくちゃに倒れて危険だし、お墓参りなんてできる状態じゃないから、今年は来なくていいから。」と言われた時には、非常時にすぐ親戚の元へ駆け付けない不義理を、申し訳なく思いながらも、 心のどこかでは、ホッとしている自分がいた。


(来年は必ず行こう・・・。)

そう誓った、去年の夏・・・。

1年経てば、少しは気持ちも落ち着くだろうし、鮎川や通過して行かなければならない石巻の復興だって、いくらかは進んでいるだろう・・・。

そう思っていた。



自分が思っていたよりも、ずっと早く1年が過ぎ、今年もお盆がやってきた。


私は相変わらず、海を避けて生活していたけれど、(今年こそは絶対に行かなければならない。)と決意していたので、15日に鮎川へ行くと、前々から予定を組んでいた。


前もって日にちを決めておかないと、恐怖心に負けて、ズルズルと先のばしにしてしまいそうだったから…。



8月に入り、お盆が近付いてきても、私の心にはまだ余裕があった。


と、いうのも、最近は何かと忙しくて、日々の用事をこなす事に精一杯で、先の事など考えている暇がなかったから。


恐怖心と向き合わなければならなくなったのは、前日の夜・・・。


早朝に出発する予定だった為、早起きしなければならないのに、様々な不安が込み上げてきて、なかなか眠れない・・・。


(怖いよ・・・。どうしよう。)
それ、ばっかり・・・。

しかも、早く寝なければと焦れば焦る程、目が冴えてきて眠れない。


結局、眠れたのは3時過ぎ。案の定、予定より1時間も遅く起床・・・。


でも、(早く準備しなきゃ。急がなきゃ。)とバタバタしたおかげで、朝はたいした恐怖心も感じぬまま、車に乗り込む事ができた。


三陸道に乗り、石巻のインターで下りるまでは、津波の被害を目にする事も、ほとんどなかった。



けれど、下りてからは、状況が一変した…。



ガードレールが、異様な形に歪んでいる事に驚いたのと同時に、住宅が密集していたはずの場所に、建物がない事に気付いた。


所々、残っている家もあるには、あったんだけれど、ほとんど骨組みだけの状態だった。


玄関のドアもない・・・。

窓ガラスもない・・・。


壁も穴だらけ・・・。

屋根もめちゃくちゃ・・・。


目を覆いたくなるような光景に、胸が苦しくなった。

さらに、そこから数分車を走らせると、今度は震災ゴミや瓦礫の山が目に飛び込んできた。


仙台でも、震災直後から何度か、震災ゴミ置き場を見たことがあり、その量の多さに驚いた事はあったけれど、石巻のそれは、仙台の何倍、何十倍・・・。比較できない程、凄まじい量だった。


津波に流された車も、山積みになっていて・・・。

その台数にもビックリしたけれど、1台1台の破損状況の酷さに、呆然とした。

中には、買って幾日も経っていないような新しい車もあったし、高級車だって沢山あった。


けれど、そのどれもが無惨な姿だった。


この車の持ち主達は、無事だったのだろうか・・・。

そんな事を考えながら、その場所を後にした。


車は、日和大橋を越え山間部に入った。


かなり前に、新道ができてからは、鮎川への道のりもだいぶ楽にはなったのだけれど、やはりこちらも地震の影響で、道路はボコボコだったし、ガードレールが崩落してなくなってしまっている所が、何ヵ所もあった。


鮎川へ行くまでには、いくつかの集落を通って行くんだけれど、その集落がないの・・・。


今、自分がどの場所を走っているのか、全く分からなかった。


ある集落なんて、集落自体が全滅してしまったらしく、今は鹿の棲家になっているらしい・・・。


よく、亡くなった祖父母と訪れた海水浴場も、地盤沈下で砂浜がなくなっていて・・・。



寂しいだとか、悲しいだとか、そんな単純な言葉では表せない気持ちになった。




前にも話したけれど、鮎川まではずっと海沿いの道を通っていく。


だから、嫌でも海は視界に入ってくる。


それでも、意識をしてあえて見ないようにしていたの・・・。


怖いから・・・。



でも、ある道に差し掛かった時に、急に視界が開けて、木々の間から思いっきり海を見てしまった。


不思議と、恐怖心は湧いてこなかった。


日の光が、水面に反射してキラキラ輝いていて、(綺麗だなぁ。)って、純粋にそう思った。


ふと、海の水が青いことに気付いた。


気付いたというより、海は青いんだって事を思い出した。


この一年5ヶ月の間、私の記憶の中の海には、全く色が付いてなかったの。


海という言葉を聞いて思い出すのは、あの日の津波の色。真っ黒で恐ろしい色。何もかも、容赦なく飲み込んで行く、忌まわしい色。ずっとずっと、思い出すことができなかった。海の青さを・・・。


何事もなかったかのように、穏やかに揺れる波を見ていると、なんだかホッとした。


海=津波ではないと考える事ができるようになった。


必要以上に怯えたりしなくてもいいのだと思えたというか、うまく説明はできないけれど、前日まで感じていた恐怖は、いくらか薄れた。完全に、なくなった訳ではないけれど・・・。



防波堤の壊れた海岸沿いの道を通る時には、さすがにもの凄い恐怖を感じた。でも、少し離れていたり、高い場所から見る分には大丈夫。


怖かったり、大丈夫だったり、精神的に忙しかった。



そうこうしているうちに、鮎川に到着した。


目の前に繰り広げられる光景に愕然とする。


話には聞いていたけれど、想像以上のものだった。あるべきはずの場所に、あるべき物がない・・・。目印になるようなものさえ、何一つない・・・。


懐かしさを感じられる場所なんて、どこにもなかった。


まるで、知らない町に迷い込んでしまったような、そんな気分だった。


ここが親戚の家のあった場所だなんて説明されても、理解できない。納得ができない。


テレビ等の報道で、何度か震災後の鮎川の映像を見たことはあった。だから、それなりに覚悟はしていた。けれど・・・。映像で見るのと、実際に自分の目で見るのとでは、全然違う。恐怖の感じ方も、悲惨さも、まるで違う。


言葉なんて、出てこなかった。目の前の無残な光景に、ただただ驚くばかりだった。


仮設住宅に住んでいる、親戚達のところへも行った。鮎川は、土地が狭いから、仮設住宅も何箇所かに分かれて建っている。一箇所につき数世帯ずつ、といった感じだった。


驚いたのは、その狭さ。そして、室内の蒸し暑さ。


2軒先の家のテレビの音が、平気で聞こえてくるような環境・・・。


私の自宅のすぐ近くにも、仙台市の仮設住宅が建っているけれど、知り合いが居ないから、入った事はなかった。環境の過酷さは、聞いてはいたけれど、今回実際に仮設住宅に行き、それがいか程かを思い知らされた。


親戚達は、皆笑顔で迎えてくれたけれど・・・。


どんなに辛い環境で生活しているのかを考えると、胸が張り裂けそうになる。


すべての親戚の家々を回り、母方のご先祖様のお墓参りを済ませ、自分の無力さを感じながらも、帰路についた・・・。



今回、鮎川に行って分かったこと・・・。


復興だなんて、嘘だと思った。


復興が進んでいるのは、恵まれたごく一部の地域だけなんだと思った。


石巻も鮎川も、その途中にあった集落も、復興なんて言葉とは程遠い状態だった。


震災直後から、時間が止まってしまっているような・・・。そんな気がしてならなかった。


仙台の中心部の最近の復興状況は、目覚しいものだと思う。それと同時に、震災だ、被災地だ、被災者だ・・・なんて言葉も、ほとんど耳にすることがなくなった。


復興だ、復興だと、修繕や新しい建物の建設が進んで行く一方で、風化もまた着実に進行しているような気がしてならない。

鮎川を含め、津波の被害に遭った地域で、元の生活が送れるようになるには、気の遠くなるような長い時間がかかってしまうだろう。

復興が成し遂げられたところで、あの懐かしい風景は二度と元には戻らない。

心に受けた傷だって、完全に癒える事は、おそらくないのではないかと思う・・・。


それでも、いつか・・・。

それが、何十年先であっても、そこに住む人達が、また希望を持って生活できるような・・・。

そんな、未来であって欲しいと、心から願う。




最後に・・・

鮎川に行ってくる前に、お盆に鮎川へ行ったら、必ず自分の見たものをブログに書いて、読んでくださる方々に、今の鮎川の現状を伝えたいと思っていました。

ありのままを知って頂く為に、写真を撮って、それを公開することも考えていました。

けれど・・・

実際自分が、現地に行ってみたら、シャッターを押すどころか、カメラを構えることさえできませんでした。

怖かったからじゃなくて、人の不幸を晒すことができないというか・・・。説明が難しいけれど、私が写そうとしている場所の一つ一つには、必ず誰かの悲しい記憶が存在している訳で・・・。それを、よそから行った私が、勝手に撮影し公開するのはちょっと違うと思ったから。

ブログを読んでくださる方々にとっては、画像があったほうがよりリアルに現状を把握していただけたのではないかと思いますが、どうぞご理解ください。

長文になりましたが、最後まで目を通していただき、本当にありがとうございました。

また、いつも私のブログを気にかけてくださり、更新が全くなかったにも関わらず、今こうしてこのブログを読んでくださる事に、心から感謝いたします。