まずは、はじめまして
清水英彰です
初参加ですが、よろしくお願いします!
カンボジアがクメール帝国として栄えたのは9世紀から13世紀。アンコールワットの近くのアンコールトムに王都が置かれ、インドシナ半島全域を支配化に置いていた。特に12世紀が最盛期で、アンコールワットを含むヒンズー教、仏教に関する多くの石造寺院が造営された。その後、国力が衰え、タイ、ベトナムの支配下に入っていった。その過程の中で、アンコール遺跡の存在も歴史から忘れられていく。
19世紀フランスの植民地となり、フランス人によって熱帯の密林の中に再発見されたアンコール遺跡群は保存の対象として整備される。第二次世界大戦では日本の支配を受け、日本敗戦の後はシアヌーク氏を国家元首とした国家として独立を勝ち取ったものの、東西冷戦とベトナム戦争に絡んだ大国の思惑もあり、長い混乱が続くことになる。
当時のカンボジアはベトナム戦争に対しては中立的な立場を維持し続けたが、1970年にクーデターが起こり、反共産主義親米軍事政権が樹立した。これより、共産主義系反政府組織と新政権との間での内戦が始まった。この内戦は、反政府組織が圧倒的に優勢なまま、1975年、ベトナム戦争の終結と相前後して親米政権の打倒によって終結した。このとき政権を握ったのが、中国の文革の影響を強く受けたクメールルージュを率いるポルポトである。
ポルポト政権下においては、偏狂した社会主義政策が強引に進められ、鎖国、教育廃止、貨幣廃止、文化歴史宗教の否定、都市住民の強制移住、集団生活、強制労働といった異常な政治が行われた。そうした中で国民の大量虐殺も進められた。その数は餓死者を含めると4年足らずの期間で数百万人ともいわれ、実に国民の数十%にも達する人が正当な理由も無く殺されていったことになる。
ポルポト政権が崩壊した1979年の後も、親ベトナム政権とポルポト派の間の争いが長く続いた。この間、東西冷戦に加え、中国とソ連(ベトナム)の確執の影響もあり、国際社会はポルポト派を正式の国家として承認し続け、ASEANや西側諸国は支援を続けた。その結果、国土を実効支配する親ベトナム社会主義政権は国際的に孤立を続け、内戦状態が継続することになった。
ソ連の崩壊と東西冷戦の終結が和平の機運をもたらし、1991年のUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)設立にいたる。選挙が行われ民主的な政治が行われるようになり、国際社会からの支援も受けられるようになった。1990年代はしばしば武力衝突も起こったが、21世紀に入った現在では、ポルポト派も消滅し、国内政治も安定して治安も安定してきている。
結局のところカンボジアは、ポルポトという不幸な指導者が権力を手に入れたことの不幸に加え、東西冷戦の影響、大国の思惑の影響を最も悲惨な形で受けてきた国家ではないだろうか。長く続いた内戦の影響は大きく、現在でも、国内の各地には大量の地雷が残ったままであり、毎年多くの犠牲者を出している。