ハウンド・ドッグ・テイラー (Hound Dog Taylor/出生名:Theodore Roosevelt Taylor / 1915年4月12日~1975年12月17日) は、アメリカ合衆国のブルーズ・ギタリスト、ブルーズ・シンガー。

 

 

 

1915年4月12日、セオドア・ルーズベルト・テイラーはアメリカ合衆国ミシシッピ州南西部の都市ナッチェス(Natchez)に生まれる。同地はミシシッピ川に面する河港があり、19世紀に綿花取引で栄えた町で、南北戦争以前に建てられたプランテーション所有者の大邸宅が多く残る。なお、テイラーの生誕年は1917年だとする説もある。

 

テイラーが最初に演奏した楽器はピアノだった。

20歳の頃、ギターを弾き始めた。小作人として農業に従事する傍らミシシッピ州のジュークジョイント※でプレイをしていた。(※南部の郊外で街道沿いにいくつもあった、アフリカ系アメリカ人向けの音楽酒場。今でいうライヴハウスのような場所だが、酒と生演奏の他、ギャンブルなども行われていたという。後に音楽は生演奏から一部ジュークボックスに移行していった)

 

1942年にシカゴに移住する。
シカゴではサウスサイド、ウェストサイドを中心にプレイするようになった。フレディ・キングのインスト・ナンバー"Hideaway"は、テイラーがこの頃シカゴのクラブで演奏していたものをキングが聴き、自分のレパートリーに取り入れたと言われている。

※映像の"Hideaway"は恐らくハウンド・ドッグ・テイラーとザ・ハウスロッカーズによる1970年代の演奏と思われる。


テイラーは多指症として知られ、彼は両手に6本の指を持っていた。だが、小指の外側に生えた「第6の指」はほとんど動かすことができなかったため、演奏には邪魔だったらしい。ある夜、酔っ払っている時、彼はまっすぐなかみそり(斧との説もある)を使って右手の余分な指を切り落としたという。
 

 

1957年頃、テイラーはフルタイムのミュージシャンになったが、シカゴ地域の外では無名のままだった。彼はシカゴで、アフリカ系アメリカ人の集まる小さなクラブや、シカゴ・ブルーズ誕生の地といわれるマクスウェル・ストリート・マーケットの路上などで演奏した。

ハウンド・ドッグ・テイラーは、エルモア・ジェームス(Elmore James/1918年1月27日-1963年5月24日)直系とも言われるボトルネックを用いたスライド奏法によるエレキ・ギターの演奏というスタイルと、安価な日本のテスコ(Teisco)製ギター、そして騒々しいまでのブギ・ビートで知られていた。 


1960年、零細レーベル「ビー&ベイビー」からシングルをリリース。

 

 

1962年、次いで「ファーマ」レーベルよりシングルをリリースし、シカゴのシーンで人気を博すが、彼の存在が広く知られるまでには至らなかった。

 

 


1967年にはチェス・レコード傘下の「チェッカー」でもレコーディングを行っているが、当時はリリースされなかった。

同年、「アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル」のバンド・メンバーとしてヨーロッパ・ツアーも経験、リトル・ウォルター(Little Walter)やココ・テイラー(Koko Taylor)と共演しているが、テイラーはあくまでもサポート役であり、注目を浴びるまでには至っていない。

 

 


1970年、ミシガン州のアンアーバー・ブルース・フェスティバルに出演する。

同年、当時デルマーク・レコードに勤務していたブルース・イグロア(Bruce Iglauer)は、ハウンド・ドッグ・テイラーとザ・ハウスロッカーズの演奏を聴き、すぐにテイラーと契約するようデルマークに進言したが、聞き入れられなかった。

そこで、テイラーのレコードをリリースするためにイグロアは、アリゲーター・レコード(Alligator Records)を立ち上げた。

 

 

1971年、ハウンド・ドッグ・テイラーとザ・ハウスロッカーズは、アリゲーター・レコードからセルフ・タイトルの『ハウンド・ドッグ・テイラー&ザ・ハウスロッカーズ』(Hound Dog Taylor and the House Rockers)をリリースして、アルバム・デビューを果たした。

ハウスロッカーズは、ハウンド・ドッグ・テイラー(Theodore Roosevelt "Hound Dog" Taylor/Vo,G)、ブルーワー・フィリップス(Brewer Phillips/2ndG)、テッド・ハーベイ(Ted Harvey/Ds)という、ツイン・ギターとドラムスのトリオ形式で、ベーシストがいない変則的な編成だった。ここから繰り出されるサウンドは、セカンド・ギターのブリュワー・フィリップスがギタリストでありながらベース・ラインもプレイするユニークなものであった。

 

 

 

 

『ハウンド・ドッグ・テイラー&ザ・ハウスロッカーズ』はアリゲーターにとって最初のレコード・リリースであった。アリゲーターは最終的にはメジャーなブルーズ・レーベルになった。

イグロアはバンドのマネジメントを開始し、バンドは全国をツアーで回り、マディ・ウォーターズ(Muddy Waters)やフレディ・キング(Freddie King)、ビッグ・ママ・ソーントン(Big Mama Thornton)と共演した。バンドは、影響を与えたとされる若いジョージ・サラグッド(George Thorogood/1950年2月24日~) のボストン地域で特に人気があった。1972年のボストンでのパフォーマンスをレコーディングした音源は、後にアルバム『Live at Joe's Place』としてリリースされた。


1973年頃、デビュー前のジョージ・サラグッドはハウンド・ドッグ・テイラーのローディーとして働き、収入を補っていた。

 

 

1974年、テイラーは、2ndアルバム『ナチュラル・ブギ』(Natural Boogie)をリリースした。本作はより高い評価を受け、さらに多くのツアーにつながった。

 

 

 

 

 

1975年、ハウンド・ドッグ・テイラー&ザ・ハウスロッカーズは、フレディ・キングおよび、「ソニー・テリーとブラウニー・マッギー」(Sonny Terry & Brownie McGhee)のデュオとともにオーストラリアとニュージーランドをツアーした。

同年、1974年の公演の模様を収めたライヴ盤『Be Ware of the Dog!』をアリゲーターからの3枚目のアルバムとしてリリースする準備をしていたものの、テイラーの存命中にリリースは実現しなかった。

12月17日、ハウンド・ドッグ・テイラーことセオドア・ルーズベルト・テイラーは、シカゴでガンのため死去した。

テイラーの亡骸はイリノイ州アルシップのレストベール墓地に埋葬された。

 

 

1976年、3枚目のアルバムとしてライヴ盤『Be Ware of the Dog!』がアリゲーターからリリースされた。

 

 

 

 

1981年、『Live at Florences』がJSP Recordsからリリース。

 


1982年、ハウスロッカーズの未発表曲集『Genuine Houserocking Music』がアリゲーターからリリースされ、グラミー賞にノミネートされる。

 

 

 

 

1984年、ハウンド・ドッグ・テイラーは死後、ブルースの殿堂入りを果たす。これに際してテイラーには、「彼は名人でも、熟練した技術者でもありませんでした。しかし、彼が演奏できるいくつかのことは、他の誰もできないように演奏できました。彼は作家のボブ・ネフに、覚えておきたい方法を伝えました。たわごとを演奏することはできませんでしたが、彼は確かにそれを良い音にしました。」(He was not a virtuoso, nor a master technician. But the few things he could play, he could play like no one else could. He told writer Bob Neff the way he would like to be remembered: 'He couldn’t play shit, but he sure made it sound good.')との言葉が贈られた。

 


1997年、アリゲーター・レコードは『ハウンド・ドッグ・テイラー:トリビュート』(Hound Dog Taylor: A Tribute)をリリースした。これは、ルーサー・アリソン、エルヴィン・ビショップ、カブコダ(テイラーのバンド、ハウスロッカーズ)、ガヴァメント・ミュール、サニー・ランドレス等によってテイラーの曲がカヴァーされた14トラックから成るトリビュートアルバムである。

 

 

1999年、『Hound Dog Taylor, deluxe edition』がアリゲーターからリリース。

 

 


2004年、未発表ライヴ音源集『この猟犬スライドに憑き』(Release the Hound)がリリースされ、再度注目を集めた。本作は、同年のブルース・ミュージック・アウォードの歴史的アルバム賞を受賞している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ハウンド・ドッグ・テイラー」「Hound Dog Taylor」

goo辞書「ナッチェス」

 

 

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