ローランド・オーザバル(Roland Orzabal/本名:Roland Jaime Orzabal de la Quintana/1961年8月22日~)は、イギリスのミュージシャン。「ティアーズ・フォー・フィアーズ」の主要メンバー。

 

 

 

1961年8月22日、ローランド・ジェイミー・オーザバル・デ・ラ・クインタナは英国イングランドのポーツマスに生まれる。母親はイギリス人だが、父親はフランス人で、バスク系スペイン人の王族の血を引く。元々は生後2週間で「ラウール」と命名されたが、彼らが英国に住むにあたり、名前を英国風にするために「ローランド」と変えたのだという。

最初はハヴァントで育ち、一家は後にバースに移った。そこでローランドはカルバーヘイ学校に通い、ゼニスユースシアターカンパニーのメンバーになった。カート・スミス(Curt Smith / 1961年6月24日~)とは、十代初め頃、バースで同じ学校に通う同級生として出会った。

14歳の時に、ローランドとカートは「Duckz」という若者のクラブ・バンドで演奏していた。

1977年、二人は16歳の頃から地元のパブやクラブで「ベイカー・ブラザーズ」として演奏。

 

1979年、ローランドはカートと他の3人のメンバーとともに、スカなどを演奏するグループ「グラデュエイト」(Graduate)を結成、リードヴォーカルとギター、キーボードを担当した。
 

 

1980年1月、グラデュエイトのデビュー・アルバム『Acting My Age』をレコーディング。

 

4月、1stシングル“Elvis Should Play Ska”が全英85位に達した。

 

 

1981年、グラデュエイトは解散。ローランドとカートは、新しいグループ「ティアーズ・フォー・フィアーズ」(Tears for Fears/以下、TFF)を結成した。バンド名は、心理学者アーサー・ヤノフの著書『Prisoners of Pain』に登場する章題からそのまま取られている。

TFFは間もなくフォノグラムと契約。

10月、デビュー・シングル“悩める子供達”(Suffer The Children)をリリース。ヒットこそしなかったものの良好なオンエアー率を記録した。

 

やがてローランドとカートは音楽上のパートナーを探していたキーボード奏者のイアン・スタンリー(Ian Stanley/1957年2月28日~)と出会う。

 

 

1982年9月20日、イアンの所有するスタジオを有効活用して作られた3rdシングル“狂気の世界”(Mad World)を発売、全英3位の大ヒットとなる。

 

 

1983年、“チェンジ”(Change)が全英4位、“ペイル・シェルター”(Pale Shelter)が全英5位と、シングルのセールスは好調で、TFFの快進撃は続いた。

 

 

3月、これらの楽曲を収録した1stアルバム『ザ・ハーティング』(The Hurting/LP発売時の邦題は『チェンジ』)を発表。全英アルバムチャートで1位を記録する。

 

 

勢いに乗るTFFはイアン・スタンリー、ネオン時代の盟友であるドラマーのマニー・エリアス(Manny Elias/1953年~)を正式メンバーに加え、アンディ・デイヴィス(同郷のバンド「スタックリッジ」のメンバーとして知られる)をサポート・キーボード奏者として迎えたバンドで、イギリス国内のツアーを行った。しかし次のシングル“ザ・ウェイ・ユー・アー”(The Way You Are)が全英24位とヒットせず、息切れを見せた彼らは休養し、新たなアイデア作りの時間をとるため、音楽シーンから一旦姿を消す。

 

約1年近いブランクの間、彼らは新しいTFFサウンドを練り直すことに専念していた。イアン・スタンリー、マニー・エリアス、そして5番目のメンバー的な存在となっていたプロデューサーのクリス・ヒューズと共に生み出されたサウンドはより力強くキャッチーなものとなった。

 

 

1984年11月19日、シングル“シャウト”(Shout)を発表、全英4位、全米「Billboard Hot 100」1位を記録。

 

 

1985年2月25日、2ndアルバム『シャウト』(Songs From The Big Chair)を発売。全英2位・全米1位を記録し、世界中で1000万枚近く売り上げる。

 

6月18日、アルバム『シャウト』からシングル“ルール・ザ・ワールド”(Everybody Wants to Rule the World)を発売、全英2位・全米1位を獲得した。

 

7月13日開催の「ライヴエイド」への出演が決定しておりポスターにも名前が印刷されていたが、急遽辞退。直前にツアー・ミュージシャン2名が脱退し、演奏のレベルを保てなくなったことが原因と言われている。

同年、続くシングル“ヘッド・オーヴァー・ヒールズ”(Head over Heels)が全英12位・全米3位に達した。

 

9月30日、『シャウト』からのリカット“I Believe”が全英23位を記録。

 

折からの第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの波にも乗り、TFFの名は世界中に知られることとなった。大々的なワールド・ツアーが行われ、来日公演(1985年7月、東京・大阪・名古屋)も実現した。

ツアーに次ぐツアーの日々で疲れ果てたローランドとカートは、お互いの仲も悪化し、解散を意識するまでに至る。そんなとき、カンザスシティのホテル・バーでふと耳にした黒人女性の歌に大きな感動を覚えた彼らは、自分たちの音楽の方向性に疑問を持ち始める。ツアーを終え、新しいアルバム作りに取りかかるも、これまでのTFFサウンドの枠から出ないイアン・スタンリーやクリス・ヒューズとの音作りにローランドとカートは満足できなくなっていた。

 

 

1986年、“ルール・ザ・ワールド”の歌詞を若干変更した“Everybody Wants To Run The World”をリリース、全英5位になった。前年開催の「ライヴ・エイド」主催者のボブ・ゲルドフは、TFFにドタキャンされたにもかかわらず、本年の「スポーツエイド」のテーマ・ソングとして "Everybody Wants to Run the World"を採用している。

 

カンザスシティでオリータ・アダムス(Oleta Adams)と出会い、新たなエモーションを得たローランドとカートは、全くの無名だった彼女を抜擢。新たなアルバム作りに向けてゲスト参加を要請する(オリータはその後、ローランドのプロデュースでソロ・デビュー。グラミー賞候補になるなど大きな評価を受けた)。オリータのヴォーカルとピアノに加え、 フィル・コリンズ、ピノ・パラディーノ、マヌ・カチェ、ニッキー・ホランド等の多彩なゲスト・ミュージシャンを迎えて作られた新たなTFFサウンドは、これまでの彼らのスタジオ・ワークにはほとんど見られなかったライヴ感を強く感じさせるものとなった。本作の時点でイアンとマニーはすでに脱退しており、以降、パーマネント・メンバーを加えずに、TFFはローランドとカートのデュオ(またはローランドのソロ)を核にサポートを加えてバンド・サウンドを展開するスタイルとなっていく。

 

 

1989年8月21日、前作から約4年ぶりに活動を再開し、シングル“シーズ・オブ・ラヴ” (Sowing the Seeds of Love)をリリース、全英5位・全米2位を記録した。

 

9月25日、3rdアルバム『シーズ・オブ・ラヴ』(The Seeds of Love)も全英1位・全米8位を記録、彼らの復活を強く印象付けるものとなった。

 

11月6日、オリータ・アダムスをフィーチャーした"Woman in Chains" をリリース、全英26位・全米36位を記録した。

 

 

アルバムを擁した「シーズ・オブ・ラヴ・ツアー」は大好評だったが、その最中にローランドとカートの不和が表面化。多くのミュージシャンが参加したイベント「ネブワース1990」のオープニング・アクトでツアーは幕を閉じたが、ツアー終了後、ニューヨークに移り住んだカートが音楽誌に突然TFF脱退を発表。事前に知らされていなかったローランドは大きなショックを受けた。

 

 

1990年2月19日、シングル"Advice for the Young at Heart"をリリース、全英36位・全米89位。

 

8月、シングル"Famous Last Words"リリース、全英83位。

 

 

1991年、ローランドはこの頃、DJ Flukeのプロデュースによる「ジョニー・パニック・アンド・ザ・バイブル・オブ・ドリームズ」(Johnny Panic And The Bible Of Dreams)名義で、ユニットと同名のシングルを発表、全英70位に到達している。

 

 

1992年3月2日、カート脱退直後に発表されたベスト・アルバム『ティアーズ・ロール・ダウン〜グレイテスト・ヒッツ』(Tears Roll Down [Greatest Hits 82–92])は全英2位、同アルバム用に新録され全英17位になった“ティアーズ・ロール・ダウン'92”(Laid So Low[Tears Roll Down]) に、ローランドの心境が「吐露されているとも言われる。

 


 

ローランドとカートとの間には権利関係など様々な問題が残ったが、結局はローランドがTFFの名を相続し、結果的にソロ・プロジェクトとなった。一方、カートは米国を拠点にソロ・アルバムや自分のバンド、メイフィールド(Mayfield)等で活動していく。 ローランドは新しいパートナーとして旧友のアラン・グリフィスを選び、共同プロデューサーにティム・パーマーを迎えて自分のスタジオでニュー・アルバムのレコーディングを始めた。

 

 

1993年6月7日、4thアルバム『ブレイク・イット・ダウン・アゲイン』(Elemental)をリリース、全英5位・全米45位。アルバムからのシングルは、"Break It Down Again"が全英20位・全米25位、 "Cold"が全英72位、"Goodnight Song"が全米125位になった他、タイトルトラック“Elemental” もリカットされた。

 

 

 

 

 

同時期にカートのファースト・ソロ・アルバム『コーリング・アウト』が競い合うようにリリースされた。

カート脱退後のTFFの音は、より練り上げられて重厚さを増したものとなり、ローランドのボーカルはより力強く響く。歌詞は難解さを増した。本作では、カートを風刺したと思われる“陸に上がった河童君”(Fish out of Water)、スタジアム・バンドになって昔の新鮮な情熱を失ってしまったほろ苦さを歌った“グッドナイト・ソング”等が収録された。なお、“陸に上がった河童君”に対してカートは後にアルバム『Mayfield』でアンサー・ソング“Sun King”を発表している。

 

本作はリリースされるまでにいささか複雑な経緯をたどった。1995年5月にリリースが決まり、曲目までプレスに発表されていたのだが、突如TFFはそれまでのレーベルであるフォノグラムからエピック・レコードへと移籍。それに従い収録曲、曲順等を若干変えて新たにリリースされたのだ。原因は、フォノグラムがこのアルバムにプライオリティを置くことはないだろうとTFF側が感じたためらしい。

 

 

1995年10月10日、5thアルバム『キングス・オブ・スペイン』(Raoul and the Kings of Spain)をリリース、本作からは今までの「心の痛み」といったTFFの音楽性における重要なテーマが影をひそめ、ローランドの家系や家庭についてなどのパーソナルな内容となった。その多くは暖かいラブ・ソングである。ちなみに原題にある「Raoul(ラウール)」とは元々ローランドのあだ名で、彼が息子につけた名前でもある。アルバムからのシングルは、タイトルトラック"Raoul and the Kings of Spain"が全英31位、"God's Mistake"が61位になった。

 

 

 

アルバムに伴うワールド・ツアー「Live Kings Tour」も行い、エピックの大々的なプロモーション戦略によりスペインの古城でライヴ・セッションを行うなど話題を集めたものの、今作は全英41位・全米79位とヒットすることなく終わり、エピックから契約を打ち切られた。

 

 

1996年、ツアー終了の翌月に、シングルB面曲や、コンピレーション・アルバム収録曲等の未CD化音源をまとめたアルバム『サタナイン』(日本でのみ発売されたCDボックスに収録されていたレア音源集『Flip』に手を加えた再編集盤でもある)を発表し、TFFはまたしても沈黙期間に入ってしまう。

 

 

2001年、ローランドは自身の名義でソロアルバム『トムキャット・スクリーミング・アウトサイド』(Tomcats Screaming Outside)を発表。ソロシングル"Low Life"、"For The Love Of Cain"もリリースした。また、TFFの最初の3枚のアルバムをリマスターしたCDも発売された。

 

 

 

この頃から、オーザバル/スミス体制によるTFFの再結成が噂されるようになった。  噂は事実であり、和解した2人は再び一緒にスタジオでの制作作業を開始した。

 

 

2003年にはアンドレ・アガシ主催のイベントにて久々にライヴでの共演も実現。アリスタ・レコードからの発売予定が中止になるという前作同様のレーベル変更劇があったものの、

 

 

2004年9月14日、分裂以来実に約15年ぶりに二枚看板が揃った6thアルバム『Everybody Loves A Happy Ending』を米国でリリース、本国イギリスを始め欧州では翌2005年3月7日に発売、日本では未発売。全英45位・全米46位を記録した。社会への視点をより成熟させ、ポップセンスとビートルズ的な要素に磨きがかかった内容となった。アルバムからのシングルは、 "Closest Thing to Heaven"が全英40位、"Everybody Loves a Happy Ending/
Call Me Mellow"が全英102位を記録した。

 

 

 

 

ローランドはバースからロサンゼルスのスミス家近くに居を移し、二人は様々なメディアで再結成をアピールし、アメリカ、ヨーロッパのツアーも精力的に行った。

 

 

2006年2月27日、前年にパリで行われたライヴの模様を収めたCD+DVD『Secret World』(日本未発売)がフランスでリリースされ、本国イギリスの輸入盤チャートにて長期にわたり上位にランクインした。 

 

以降もオムニバス・ライブ・イベントである「Night of the Proms」への参加、アメリカを中心としながらも世界各地で毎年のようにライヴを行うなど、マイ・ペースに活動を続けている。

 

 

2012年8月、サマーソニック2012に参加し、27年ぶりの来日公演を行った。

 

2013年、新作アルバムのレコーディング中であることを発表。インターネット上で3曲のカヴァー曲をリリースした(後に3曲をまとめたEP『Ready Boy & Girls?』としてアナログ盤が発売されている)。

 

2017年7月、インタビューにて新作のタイトルが『The Tipping Point』となることと、収録曲からいくつかのタイトルについてなどが語られた。

同年11月、シングル発売された"I Love You but I'm Lost"など新曲2曲を含むベスト・アルバム『Rule the World – The Greatest Hits』をリリース。

 

 

同アルバムに伴う英国ツアーを2018年に行う予定だったが、諸事情により2019年に延期。

 

 

2021年3月13日付の『ビルボード』誌において、“ルール・ザ・ワールド”が「オルタナティヴ・デジタル・ソング・セールス」(Alternative Digital Song Sales)というチャートで1位を獲得。同曲が1985年6月に2週にわたって「Billboard Hot 100」で1位を記録して以来、36年ぶりのチャート1位となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ローランド・オーザバル」「ティアーズ・フォー・フィアーズ」「Roland Orzabal」「Tears for Fears」「グラデュエイト」