玉置 浩二(たまき こうじ/1958年9月13日~)は、日本のミュージシャン、俳優。ロックバンド「安全地帯」のヴォーカリスト。
北海道旭川市出身。北海道旭川農業高等学校中退。
1971年、旭川市立神居小学校卒業。旭川市立神居中学校入学。野球部入部。
1972年、中学2年時に転入生の武沢豊と同級生となる。
1973年、中学校の生徒会長を務めた。
同年4月、玉置浩二(Vo)、武沢豊(G)、武沢俊也(武沢の兄、G/Key)の3人で
バンド「インベーダー」を結成。フォーク・グループとしてスタートしたが、
途中ロック志向に変ったため、後に「安全地帯」へ名称を変更。
11月、玉置の実兄、玉置一芳がドラムで、宮下隆宏がベースで参加。
ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)第6回に初出場。
第11回を除く第13回まで連続出場した。
1974年、旭川市立神居中学校卒業。北海道旭川農業高等学校入学。
1976年、ポプコン第12回で“昔にみたもの”で北海道代表となり、つま恋本選会に出場。
12月25日、札幌市内にてFMラジオ番組の生放送に出演し5曲演奏した。
「安全地帯」としてのラジオ初出演であった。
1977年6月、玉置一芳が脱退し、ドラムに大平市治が加入する。
12月、「六土開正バンド」と合併し、六土開正(B/Key)、矢萩渉(G)、田中裕二(Ds)が安全地帯に参加。玉置Vo、武沢と矢萩のツインG、六土はキーボードに回り、武沢と六土のツインKey、宮下B、大平と田中のツインDsという大編成8名バンドとなった。音楽性はハードロックから、アメリカンロックへと幅が広がった。オリジナル曲の制作も増え、作詞は初期に玉置、後に武沢俊也が担当。作曲は玉置が行った。
1978年2月、旭川市郊外の永山地区にある廃農家を借り、居住空間を確保した音楽専用スタジオに改装。「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」(略称MFP、「音楽を耕す農夫集団」の意)と命名する。
7月、第1回ステージフライトに出場し、グランプリを獲得する。
11月、ドラムの田中裕二、ベースの宮下隆宏が脱退し、六土はベース担当へ復帰。
1979年8月、カルメン・マキの旭川、札幌公演では前座として出演した。
1980年10月、キティレコードと仮契約が結ばれた。
12月、元モップスのギタリストで井上陽水の編曲やバンドサポートで活躍していた星勝を交えてミーティングを行う。
1981年3月、武沢俊也が脱退する。
7月、井上陽水が星勝の紹介でMFPを訪問し共演。その後、井上陽水に招聘され、
バックバンドとして上京する。
1982年1月24日、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に井上陽水のバックバンドとして初出演する。
2月25日、ファーストシングル“萠黄色のスナップ”をキティレコードからリリースし、
メジャーデビュー。
4月、キティレコードと正式契約。メンバーは東京に転居して合宿生活を開始するが、大平が脱退し、田中が再加入。これにより、デビュー以後の安全地帯のメンバー、玉置浩二(たまき こうじ/1958年9月13日~/ Vo・G)、矢萩渉(やはぎ わたる/1957年6月27日~/ G)、武沢豊(たけざわ ゆたか<読みが同じ[侑昂]名義も併用>/1958年5月16日/ G)、六土開正(ろくど はるよし/1955年10月1日~/ B・P・Key)、田中裕二(たなか ゆうじ/1957年5月29日~/ Ds)の5人が確定。
9月24日、井上陽水ツアーが熊本市民会館からスタートし、12月10日の東京・渋谷公会堂の最終回まで、全国23カ所の公演にバックバンドとして参加する。
1983年1月25日、1stアルバム『安全地帯I Remember to Remember』を発表。
その後、サントリーから発売されたワイン「赤玉パンチ」のCMソングに起用された
4thシングル“ワインレッドの心”が大ヒット。一躍全国にその名が知れ渡る。
同年、同郷の一般女性と結婚。
1984年、5月1日に2ndアルバム『安全地帯II』、10月25日に7thシングル“恋の予感”、
12月1日に3rdアルバム『安全地帯III〜抱きしめたい』を次々とリリース、
翌年1月25日には8thシングル“熱視線”をリリースしチャート2位になるなど、
立て続けにヒットさせる。
1985年、9thシングル“悲しみにさよなら”が大ヒット。TBS『ザ・ベストテン』、
日本テレビ『ザ・トップテン』年間第1位に輝き、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たした。
また、FNS歌謡祭では史上初で唯一となる2年連続で最優秀歌唱賞を受賞した。
11月24日、アルバム『安全地帯IV』リリース。本作を含め、
3作連続アルバムチャート1位を記録する。
1986年、神宮球場における初コンサートを井上陽水とともに行い、大成功を収める。
同年12月3日、14thシングル“好きさ”リリース。チャート4位。
12月14日にはアナログ盤にして3枚組となるアルバム『安全地帯V』を発売、
チャート1位を記録しただけでなく、年間売り上げ1位を獲得するなど、快進撃を続ける。
なお、“ワインレッドの心”、“恋の予感”、“Friend”などが香港でカヴァーされ、
各曲がヒットしたこともあり、香港での人気も高かった。
映画『プルシアンブルーの肖像』で俳優デビュー。最初の妻と離婚。
1987年4月21日、15thシングル“じれったい”リリース。チャート2位を記録。
7月25日、シングル“All I Do”でソロデビュー。オリコン最高位10位。
1988年4月10日、6thアルバム『安全地帯VI〜月に濡れたふたり』リリース。
秋に行われた香港コロシアムでのコンサートを最後に、突然バンドの活動休止を宣言。
1989年1月25日、ソロシングル第二弾、“キ・ツ・イ”リリース。オリコン最高位7位。
1990年7月25日、7thアルバム『安全地帯VII〜夢の都』のリリースを機に活動を再開。
チャート最高位2位。
1991年、シングル“胸の振り子”の作曲を担当したことをきっかけに交際していた
薬師丸ひろ子と再婚。
12月11日、『安全地帯VIII〜太陽』をリリース。チャート7位を記録。
1992年12月、アコースティックスタイルでのコンサートツアーを終えたところで、
安全地帯は再び活動を休止。
1993年2月10日、安全地帯のシングル“ひとりぼっちのエール”リリース。
これがキティレコードからの最後のシングルとなった。
その後、バンドは活動を休止し、玉置はソロに専念。
Sony Recordsに移籍し、須藤晃をプロデューサーに迎える。
チャリティーグループ『USED TO BE A CHILD』に参加。
1994年、国連UNESCOの呼びかけによる『THE GREAT MUSIC EXPERIENCE '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』に参加。
1996年、大河ドラマ『秀吉』に足利義昭役で出演。
また、自らが出演したテレビドラマ『コーチ』の主題歌でソロ11thシングル“田園”が大ヒットし、同年末の第47回NHK紅白歌合戦への出場を果たす。
バックバンドには本来のツアーバンドではなく、当時玉置と同じSony Recordsに所属していたTOKIOを据え、59.9%の歌手別最高視聴率を記録。放送後に売上を伸ばし、
結果的にグループ/ソロ通じて最大のヒット92万枚を記録した。
1998年、薬師丸と離婚。これを機に軽井沢町へ移住。
所属レコード会社をファンハウスへ移籍。
1999年、ツアーバンドの一員でキーボード奏者の安藤さと子と結婚。
また、軽井沢にログハウスを建築。
2001年頃より安全地帯のレコーディングを開始する。
2002年、レコード会社をSony Recordsに戻し、約10年ぶりに安全地帯の活動を再開。
7月10日、安全地帯10年ぶりのシングル“出逢い”がリリース。
同年8月7日に9thアルバム『安全地帯IX』が発売。
2003年10月22日、10thアルバム『安全地帯X〜雨のち晴れ〜』がリリース。
ツアーでは5人全員が揃い、80年代の活動の場であったライブハウス「Shibuya eggman」でもライブを行う。ツアーは2003年12月で全日程を終了。
ツアー終了後の2004年以降は、グループ活動を休止し、個々の活動を続けている。
2004年、個人事務所・アンクルオニオンの設立を機に、ソロ活動に専念する。
翌2005年、ソニー復帰後、初のソロアルバムをリリース。
2005年、8年ぶりのテレビドラマ、『あいのうた』に出演。
主題歌に21枚目のソロシングル“プレゼント”を提供。
2007年12月1日、安藤さと子と離婚。
2008年、病気療養(急性膵炎)のため、活動を休止。
2009年2月25日、『日刊スポーツ』の報道を受けて、女優の石原真理(石原真理子から改名)と婚姻届を提出したが、石原の籍が前夫と婚姻したままになっていたため、不受理に終わる。
9月4日、石原真理と破局したと日刊スポーツで報道される。
12月25日、所属レコード会社により安全地帯活動再開第1弾シングル
“蒼いバラ”のショートクリップが公開。
2010年1月8日、6年ぶりの安全地帯の活動再開を発表。
7月16日、タレントで女優の青田典子と結婚。
2012年7月1日、ソニーミュージックへ3回目の移籍。
自主レーベル「ソルトモデラート」を立ち上げ「安全地帯/玉置浩二」それぞれの活動を開始。
2013年10月~12月に放送されたドラマ『東京バンドワゴン』にて、
8年ぶりとなる連続ドラマに出演。
11月6日、ドラマ主演の亀梨和也との共同ユニット「堀田家BAND」名義で
主題歌“サヨナラ☆ありがとう”(作詞:玉置浩二、須藤晃/作曲:玉置浩二)をリリース。
同曲が玉置にとって28年ぶりとなるオリコン週間シングルチャート1位を獲得。
同年夏頃から始まった徳永英明のコンサートツアー本編にて、一部の公演に飛び入り参加し、“いかないで”をコラボしている。
2014年12月、カヴァーアルバム『群像の星』をリリース。
2015年2月、NHK BSプレミアムにて初の冠番組『玉置浩二ショー』が放送開始。
2016年、憩室炎(けいしつしえん)のため緊急入院し、約1カ月間の休養に入る。5月に予定されていた5公演を中止。
5月20日に退院。
6月2日に活動を再開し、病気の原因の一つが飲酒であることから「一生禁酒」を宣言。
2017年、安全地帯デビュー35周年と玉置のソロデビュー30周年を迎えるに当たりグループ・ソロの両方で初となるオールタイム・ベストアルバム『ALL TIME BEST』のリリースと全国ツアー「ALL TIME BEST[30]〜30th Anniversary Tour 2017〜」ならびにビルボードクラシックス公演「KOJI TAMAKI PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2017-THE GRAND RENAISSANCE-」の開催を発表。
5月25日、NHK『SONGS』に2年ぶりに出演した。
5月31日、『ALL TIME BEST』が、玉置浩二盤と安全地帯盤で、同時発売。玉置浩二盤では1987年のデビューシングル“All I Do”から2013年の25thシングル“サーチライト”までの全25曲、安全地帯盤では1982年のデビューシングル“萠黄色のスナップ”から2011年の29thシングル“結界”までの全29曲のシングル曲がそれぞれレーベルの垣根を越えて収録されている。
両ベストアルバムの発売当日、安全地帯として4年振りとなるツアー(日本武道館2daysならびに香港公演)の開催が発表された。