まず、見てくれてありがとうございます。文章を書きたい欲と自己承認欲求が混じり合った結果、理系高校生とは無縁そうなこの地に辿り着きました。即ち半分趣味。僕にとって日記的、現在に書く回顧録的な立ち位置です。なので見苦しい部分があると思いますがそこはご愛嬌。しがない矮小な存在の評論文(後々短編小説とか書くかも)として鼻で笑ってくださいな。では前置きはこの縁にしたいと思います。お後がよろしゅうようで。
先に言っておくが最も効率的に言語を使う方法とかほざいているがごく当たり前のことを理論的に紐解いているだけだ。
人間の言語の特性から考える、我々が最も効率的に言語を使う方法
言語化の定義を言語化するのはいささか矛盾に似たものを感じるが強いて書くのであれば、「自己ではない他の同種に対し自己とその他の同種が理解可能な何かを用いて意思やその他を共有すること」とでも言えるのではないだろうか。しかし、本当に言語化とはこのような一通りで示すことができるような過程なのであろうか。
イルカやコウモリなどが人間には到底聞き取ることのできない高周波の音で意思疎通を図っていることは有名だ。彼らのその超音波が何を指すのか我々はたとえその音を聞き取ることができたとしても解析するのは難しいであろう。ひょっとしたら彼らだって彼ら独自の社会コミュニティを形成し敬語を使っているかも知れない。これは現時点の人類で誰も分かり得ないことだ。
今回筆者が記したいのはこの社会コミュニティと言語についてだ。人間ではこの二つが密接に結びついていることは自明であろう。前段落で動物の言語について記したのは動物の言語化を今回、人間の言語がとは対照的な「社会的コミュニティと関係の言語化」としたいからである。生物学者の方々、申し訳ない。妥協して欲しい。
ここで注目して欲しいのは社会的コミュニティとの関係性の濃度によって何が変化するのかと言うことである。
結論から言うと「意思疎通に必要最低限の要素以外を含むか否か」である。前述の仮定によると動物の言語化は社会的コミュニティとの関係性はない。これが何を指すか、それは「着飾る要素がない」と言うことである。社会と言語が結びついていない(正確にはそもそも社会が出来上がっていない)と当然言語は社会的身分の上下によって変化したり影響を受けたりすることはありえない。敬語などが最たる例なのではないだろうか。
動物の言語と人間の言語、着飾る要素がない言語と着飾る要素がある言語、この二つではその重要性が明らかに違ってくる、わけではなく言語の利便性そのものが大きくかわってくる。。前者は言語からはその内容しか感じ取ることができない。対して後者は着飾る要素を使うことによって直接言語化されていない相手への尊敬の念や逆に憎悪の念、はたまた相手に関心がないことすら伝えることができるのだ。この視点から考えると我々が言語を最も効率的に使う方法を考えるといいのではないか。筆者が思うその方法を一つ示して締めたいと思う。
言葉そのものの意味よりもその言葉を放った時の声量や敬語の使い方、表情は陰ながらその言葉以上に言語として相手の気持ちを伝えうると言うことを念頭に置き、寸劇のように言語力ではなく表現力を鍛え上げる。これが言語力を向上させ言語を最も効率的に使えるようになるための唯一の方法なのではないか。口でなく態度で示すのと似ているが。