賃貸がなかなか決まりません。

犬がいるってこんなに大変だったんだ…

不動産屋さんが二時間くらいかけて

方々電話してくれたけど

3件とか4件とかそんなところで

駅からも遠くで気が重い。


とりあえず、そんなところを

車で連れてってもらって

さすがに賃貸は気楽で面白かったけど

隣人との距離感というのか

なんか不安。


そういうことで、やっぱり戸建だと

古いところは安かったりするし

それに見てまわった限り

今のうちよりボロボロなところなんてないわけで

じゃぁ、とことん安いとこにしてしまおうと

自分で調べてみたりしています。


ほんとは、いろんな不動産屋さんをまわってみたかったんだけど

一度、連れてってもらったりすると

変に情が移っちゃって、裏切ってるような気持ちになっちゃって

だからもういいやって。


土地のほうは

一度、西荻窪のよさを知ってしまうと

なかなか違うところは納得できなくて

こうなりゃ横浜だと

探してみたら、中華街と横浜スタジアムの間くらいに

なんとかなりそうな値段で出てて

うん。ハマっ子になるのも悪くないなぁ…なんて思ったりしてます。

あんなとこでできたら楽しいだろうな。

あとは勇気です。

別れを乗り越える勇気と、新しい出会いへの勇気と。

もう頑張んなきゃなぁ。

口だけじゃなく、もう動かなきゃ。
子ども手当ても高校の無償化も

一律にするなら反対はしないけど

ただお金を配るだけのことになりそうで

うまくいかない気がする。



金を出してるんだから、口を出せろとは

さすがに品がなくて言えない。

でも、実際はそういうことで

高校の無償化で

朝鮮学校のことも言われてるけど

もしそうなったら

学校側は当然、僕たちにわかりやすいように

なにをしてるのか説明する責任も出てくるし、

透明化ってのも責任になる。

だから僕は、どこの学校も隔てなく無償化された方がいいと思う。


どうしてなんだかわからないけど

これまで学校は、子どもたちを守るという理由で

社会との間に壁を作ってきた気がする。

僕はそれも間違いじゃないと思うけど

気が付いたら子どもを守るより

その壁が教師を守るために働いてたりして

どうにもならなくなってる。



今の状況を考えると

教育が親だけにも教師だけにも任せられなくなっちゃった。

そういう残念なことが背景にあるから

政治の介入が必要になった。そういうことだと思う。



政治の介入ってのは、本質的には民意の介入で

なんでもそうだけど、民主主義の国は

ものごとが破綻すると、どうしてもこうなる。

理性とか、良心の瀬戸際が民意ということになっちゃう。

逆に取れば、責任の分散ということで

うやむやにするにはもってこいのやり方だと思う。



この高校の無償化が

授業料を親に国が援助するってことなのか、

授業料分のお金を学校に援助して、授業料自体を取らないということなのか

よくわかってないのだけれど

もしやるのなら

高校の無償化は学校にお金を入れるかたちのほうがいいと思う。

教育に対する親側への介入は子ども手当があるわけだし

重ねて援助するより

学校に介入できるようにした方が

お金の使い方としては有用だと思う。



でも、僕は正直うまくいかないと思ってる。

子どもを社会全体で育ててく。

そういう自覚が親にも社会にも

子どもたちにもあるのかどうか疑わしい。


これまでとは変わるんだってことを

誰がどうやって説明するのか

言葉を扱える政治家も見当たらないし

そういう哲学的というか思想的な言葉を

受け入れる土壌もないと思う。


だから、結局

「ああ、生活が少し楽になった…」とか、親は感想を持つだけで

「ああ、税金がまた高くなった…」とか、嘆くだけで

「ぼくたち、わたしの勝手だ!」とか、子どもたちは呆けるだけで。



それに、たとえば朝鮮学校の教育に介入するような

権利の行使ができるとは思えない。そんな勇気はない。

賛成してる政治家も

そういうことで健全化していくなんてまったく考えてもいないだろうし

教師側にもそんな自覚はないだろう。



ものごとは、結果も大事なんだけれども

手順のほうがずっと大事だと思う。

その手順に、なにをどうしたいのか

方針とか、意思が見える。

さすがにこんなこと言うのは恥ずかしいけれど

この国に欠けている最も大きなものだと思う。



教育費の負担が減る。

せいぜい、お金の有無で教育に差が出ることを抑える。

もちろん、それは大事なことだけど

その程度のことしか考えられないなら

スノーボードの国母選手を批判することなんかできないよ。

この程度で商売したらすぐに失敗する。


少し前まで、合理的であることがすごく持て囃されたし

今だって合理的に考えることは正しいことだと思われてる。

自分自身がどれだけ非合理に動いているかも考えないで。


なのに、お金にしろ愛情とか思いやりにしろ

どのタイミングで、どの寄せ方で、どのくらいの比重で

手を差し伸べれば最も多くの利益を得られるのか

考えたり想像したりできない。

偽善が嫌なら嫌でもいいけれど、

配慮するにも思いやるにも、譲るにも

まずそれが前提にならない、考えないのは怠慢だと思う。


お金の持つ力とか

善意とか、良心とか

振りかざすのは下品なことだよ。

だから、黙っていて粛々と進めていくつもりなのかもしれないけど

あんだけ下品なことばかりしてる人たちが

ここだけ上品になるわけもなく

お金が有り余ってるならそれでもいいのだろうけど

国の借金がどうのとか、財源がどうのとか言ってる人たちが

お金を最大限に生かそうとか考えないのだから不思議だ。


施す側に意思も筋も思想もなくて

施される側に公共心がない。

なんであろうとうまくいきっこない。
僕がお店をやりたいと思った理由のひとつに

なんていうか、相互扶助の関係っていうのかな

価値観を共有しあう人たちが小さな共同体をつくって

補ったり、楽しんだり、そういうことがしたい。

もちろん、そんなのは夢みたいな話なんだけれども。



だけどさ

僕たちを守ってくれるというか、生きやすくしてくれるはずの

政治ってのが、まったく期待できないと感じるのね。

個人的には、期待できないどころか絶望的だと思ってる。

それも未来に向けてだよ。

未来を含めて期待できないし、もうしてない。

個々の政党とか政治家に…ってわけじゃないよ。

僕が絶望的だと思ってるのは、民意の方だよ。


自民党がとか、民主党がとかじゃなく

献金がどうのとか、みょうちくりんな政策だとか

ニュースで見るたびにね

僕は前の選挙で、投票所に行列までつくって並んでる人たちを思い出す。

何に期待してなのかわかんないけどさ

なんかどこかで聞いたことのある小難しい話をしながらさ。



なんていうかさ

そういうのに巻き込まれたくないしさ

だけど、巻き込まれないわけにはいかなくてさ

たぶん、どうなろうが

この先も民主主義である限り

同じことが繰り返されるんだと思う。

こんなこと言えるほど偉くも考えてもいないけど

そうやって成長していくもんだなんて

ぜんぜん思わない。


どうしたって変な服を選んじゃう人がいるように

政治に携わるにもさ、センスが必要だと思うよ。

どう頑張ったって、面白いことが言えない人がいるようにさ。

なにしろ人には向き不向きがある。


だからね

この先、害しか与えてくれないと思う

思うというか、ほぼ確信してるというか

そういうことで

どうにか、そういう害から自分たちを守らなきゃならない。


もちろん、助け合えるかどうかは難しいよ。

逮捕覚悟で戦うつもりもないし。

ただね、共感しあって、慰めあって、

それだけでもずいぶん気は楽になる。

冗談にして笑いあえればいいと思うんだ。

意見が分かれたときの落着先が

「人それぞれ」だったときの悲しさを

共感してくれる人はそれほど多くないと思う。


もちろん、人それぞれってことはある。

あるけれども

使われるその大半は

ただの逃げ口上だと思う。


なにかを表現すれば、どうしたって批判はある。

同意を求めたいなら、否定される覚悟も持つべきで

同意を求めるなら、同意を受けるだけの根拠を持つべきで

同意を求めない表現なら、言い訳ぐらいしてほしい。


自分の言葉にちゃんと責任を持つ。

こうやって書くと、なんか偉そうで、面倒なことのように思えるけど

こんなこと普通の大人なら、誰だってしてることだと思う。



だけど、

上が定まらなければ下も定まるはずがないわけで

今の、まったく言葉に責任を持たない

総理大臣とか幹事長とか、その取り巻きとか

テレビのコメンテーターとか評論家とか

なにしろ、責任という言葉を知らないんじゃないかってくらい持たないから

しかたないとも思う。



ただ、ある程度

そういう緩さがないと

なにかを好きって言えなくなるから

バランスが大事なのかもしれない。

いや、僕はこのバランスってのも

簡単に使われすぎてるというか、

納得いかない言葉の一つなんだけれども

だって、バランスを取るって言うとさ

その大半は、秤の皿が傾かないように調節しながら置いていくことを意味しててさ

それはただ、整理してるだけの話でしょう。

実際は何も変わらないってことだよ。

本来のバランスってさ

知恵と勇気を持って、軸を打ち立てるってことじゃないのかな?

そうすることで、過剰なものを捨てる必要も出てくるし

足りないものを育てたり、持ってきたりする必要も出てくるし


その拾ったり捨てたりすることが

個を形成するってことで

個人って言葉を使うのだとするならね

知恵と勇気で軸を打つっていうのは

個の形成に見えて、実は帰属する社会とか

そういうものを見極めることだと僕は思う。


拾うか捨てる程度のこと、しかもその作業だって限定的だよ

個というものが純粋に介入できるのは。

と、僕は思います。



僕が好き嫌いよりも

良いや悪い、善い悪いでもどっちでもいいけど

そっちに興味を持つというか

価値を置くのは

たぶん、余裕がないからで

好きや嫌いだと、失敗すること多いからね

好きな場所でお店をはじめても、満足はあるかもしれないけど

潰れちゃうかもしれない。

潰れてもいいって余裕がないと、好き嫌いで動かせない。


人にどう思われてもいいっていう余裕

正直、僕はすごく憧れる。

その好きで、たくさんの人を引きずってしまえる人もときどきいる。

そんな人が神様みたいに見えるときがある。


そしてそんな人が、垣間見せる

その好きの不安。人に見られる不安。

なんか勇気付けてあげたくなってしまう。

僕たちは違うけど、あなただけは大丈夫だって言えちゃう。


でも、そう思える人の「好き」って

片足はちゃんと凡人の理解できるところに置いてあるよ。

なんとか理解できるところにのってる。


まったく想像できない、びっくりしちゃう人もいるけれど

そういう人は省みたりしないんだろう。

孤独だけどとても自由だと思う。


なにが言いたいのかわからなくなった…

ネットにある物件情報は遅いと

不動産屋さんは言うけれど

紹介してもらう物件はどれも微妙で

結局、その遅いと言われるネットの物件情報を

自分で検索したほうがはかどる。


でも、もう1000件以上見てる。

そのなかでようやく3件

有力な候補を見つけた。

今は紹介してもらったの含めて4件

欠点で比べるんじゃなく、よいところで比べられる。

きっとそれは幸せなことなんだと思う。


あとは、その場所でどんなものがどんな値段でできるのか

すごく気に入ったら、多少の予算オーバーも認めようかと思ってる。

借金とまではいかなくても、

運転資金を削るなり、なんとかしようと思う。




先日、前の彼女の赤ちゃんに会った。

ずっと会いたかった。もう切なくなるくらい。

だけど、毎度不愉快な気分にさせられる、

相手からみれば、させてしまうから

半分くらいは諦めてた。


半年振りくらい。

前に会ったときは、首もすわってなかったし

猫みたいな声で泣いてた。

きっと僕のことなんか覚えてないだろうし

まぁ、赤ちゃんだから覚えられないか…



ベビーカーでやってきた赤ちゃんは

想像以上に大きくなってて

男らしくなってた。

最初、僕の顔を見たときの表情は忘れられない。

なんていうんだろう?

不思議そうに…とか、キョトンと…とか、そういう穏やかなものじゃない。

怖がってる。少しはそういうのもあったかもしれない。

でも、それだけじゃなくて

なんだろうなぁ…

赤ちゃんじゃなければ許されない表情。

もし、あんな表情で顔を見つめられたら

人としてやっていけない。

見つめられてる僕の方が怖くなった。


でも、どうにか怖さを振り切って

明るく笑いかけて、一生懸命お話して

そしたら、笑ってくれるようになった。


どうも人見知りがはじまったらしく

泣かずに打ち解けるのは初めてなんだそうな。

一ヶ月に一度来る、彼女の母親にも泣くらしいし

旦那さんでさえ泣くのだそうな。

まぁ、気持ちはわからなくもない。

彼女の母親なら、30過ぎてる僕でも泣く。


でも、ほんと気をゆるしてくれたみたいで

彼女の食事中は僕のひざの上で

買い物中は肩にしがみついてた。

僕の顔をじっと見つめて、ひげをいじったり

手を握ってくれたり

彼女が側にいなくてもぜんぜん平気。


なんか嬉しくて嬉しくて

いっぱいお話をした。


もちろんまだ話はできないのだけど

まっすぐ僕を見て

一生懸命、声を出してくれるから

きっと何か伝えたいんだろう。

どうにかわかりたいのだけど、やっぱりよくわからないから

笑ってたくさん頷いて

たかいたかいをしてあげる。

ぶさいくなくらい笑ってくれる。

かわいくてたまらない。



ここのところ疲れてて

だけど、すっかり吹っ飛んじゃった。

大好きな人とも

仲直りというか、気まずさがなくなって

それも嬉しくて元気になれたけど

なんか頑張ろうって気分になれた。


昨日会ったのに、もう会いたくて切なくなってる。

彼女ともなんとかうまくいられたし

まぁ、服さえ買ってあげれば

機嫌よくしてくれるとわかったので

次もそれでいこう。

最近の洋服は安くて助かる。赤ちゃんの服は高くて困る。




湿った言葉は

相手の手足に絡む。

どれだけ相手を想おうが、誠実であろうが

愛が込められていようが関係なく

ぬめぬめ湿った言葉は相手の手足に絡みつく。

そんなもの迷惑でしかない。

ときには憎しみさえ抱くかもしれない。


冷静さはその冷たい空気で

湿りを乾かす。

情熱はその炎で

湿りを乾かす。


そのどちらでもない、ためらいは

優しさでもあるけど

そこから生まれる言葉には湿りがある。


ためらいながら進んじゃだめなんだと思う。

どうあれ、言葉にするとき、行動するとき

冷静に、情熱的に

ためらいを踏み越えて決断しなきゃいけないんだと思う。



頭ではわかっていても

やってしまうのだからしかたない。


傷ついた痛みは

同じように傷ついた人にしかわからない。

だけど、わかる人の方が

わからない人よりも人を傷つけやすい。

もちろん、傷つけたいわけじゃない。

痛みを知るそのためらいが

言葉を湿らせて

相手を傷つける。

ためらいがちに伸びる腕が

傷口に触れる。

それによってまた自分も傷つく。

お互いに傷つけあうことになる。


悪意よりも善意の方が

人を傷つけやすい。


想い悩んで

その先にカラリと渇いた言葉が出せればいいのだけれど

なかなかできないから

鈍感を装う。

それもまたなかなか難しい。
来月の末には引越しということで

なかなか忙しくなりました。


とりあえず、いったん賃貸なんですけど

うちには、正月に噛み付いたあの大きな犬がいるし

一軒家じゃないと無理かなぁ…と。

結構、賃料が高いんですよね

せっかくだから、マンションに住んでみたかったんだけども。


仕事が休みの日は

ほとんど物件探し。

地元以外だと、特別思い入れはないから

探すエリアが広いので

車で飛び回ることになります。


ある程度は紙の資料でわかるんだけど

できるだけ見るようにしてます。

もしかしたら、なにか得るものがあるかもしれない。


いいなぁ…と、思えるところもいくつかあって

今日行ったとこは、商店街の通りに面してるんですが

なんと庭に池があって、大きな鯉が泳いでました。

井戸まであるらしくて、かなり気に入ってます。


ただ、あんまり行ったことない地域なんで

どんな感じの人が生活してるのかよくわからない。

その場所の文化とでもいうのですか

人通りとか、周囲の環境とかより、

ずっと不安というか、心配になります。



どうも最近、不動産の購入に動く人が多いみたいで

立川より西側は、まだぜんぜん駄目みたいですけど

新宿よりの物件を扱う業者さんは、忙しくなってきたみたいです。

もともとこの時期は、そういうものらしいですけど

だいぶ安くなったことに、物件数の少なさが意欲に繋がってるのかなぁ…と、感じます。


僕としては、物件数の減少は

価格低下の売り渋りで、売り枯れしたとは思えないので

春のシーズン後とか、そこから夏にかけて

もう一段下がる不安を感じてます。


去年は競売が倍近く増えてると聞きますから

体力ギリギリで耐えてる人も多いだろうし

今年中に景気がよくなるとは思えませんし

仮によくなったとしても、

今の状態、日本が単独でって話は考えられないので

原材料高とか、金利の問題とかいろいろ出てくると思います。



なにしろ、そろそろ賃貸のほうを探していこうかと思ってます。

実はすごく楽しみです。

土地とかだとひどく重いものを背負わされてる感じがして

疲れちゃうんですが

賃貸はきっと楽しい。

でも、引越しのことを考えると気が重くなります。

荷物がやたら多いので、かなり苦労しそうです。
ものが売れないという記事をよく見かける。

不況ということもあるけれど

たいがいそんな記事には

低価格志向だとか、若者の車やブランド品離れとか

文化的な変化があって、

さぁ、どうしたものか…と、

異文化に対する戸惑いというか、世代間格差というか

対応できないことでの不安というか、先行き不透明感。

そんな感じのことが書いてある。


僕もなんとなくだけどわかる気がする。

たしかに、昔よりもずっと若い人は

よく言えば個性的になったし、悪く言えば自閉的になった気がする。

よいものよりも好きなものを大事にする。

自由だし、放蕩かもしれない。


要は、裕福になったということで

悪いことではないのかもしれないけど

使命感のない貴族みたいなもので

関心が散漫で、共に生きるには難しいと思う。

もしかすると結婚離れもそのあたりにあるのかもしれない。


ただ、僕はそういう記事を見るたびに

そういった文化的なもので誤魔化そうとしてるように思える。


あれだけリストラをして、賃金を下げて、下請けを切り捨てて

国内消費が下がるのは当然のことで

経団連の会長とか、そんな偉い人たちが

わからないわけがないから

きっと、騒いでるのは別な人たちだろうと思うけど

もし、本当に驚いたり悩んだりしてるなら

相当な間抜けだから、会社のためにならないので

それこそリストラするべきだと思う。


だけど、そういう議論なんかを聞いてると

どうにか落着させたいのか、安心したいのか分らないけど

結局は「よいものをつくれば売れる」で終わる。

少し前に、

効率化だとか合理化だとか、規制緩和だとか

叫びまくった人たちにかぎって、そういうことを言う。


「よいものをつくれば売れる」

僕もそうあるべきだと思うし、そういうところもあると思う。

だけど、同じ口で言って欲しくはない。


どうせなら、また何とか債権とかよくわからないのをつくって

虚構に虚構を重ねた、巨大な虚構の消費地をつくって

バカバカ売り込んで、その利益で債権を買って…みたいな

要は、竹中さんみたいに

景気対策なんかでお金を使うくらいなら、

アメリカにお金を注ぎ込んで、巨大消費地を復活させて

また危うい虚構の循環で生きてこうって言えば、ずっと一貫性があってわかりやすい。

もちろん、そんなことをまたすれば

労働と賃金のバランスに公平性が欠けて

道徳的な問題が出てくるけど、他国のことだからうまく隠せばいいだろうし。



責任をとりたくないだけかもしれないし

責任というものがあることを知らないのかもしれないけど

自分たちのしてきたことに触れずに

問題をすりかえるようなことは悲しい。



なにしろ、僕はそういう人たちに

「よいものをつくれば売れる」なんて言って欲しくないし

お金を払えば、その分のサービスを受けるのが当然といった

思いやりのない消費者にも言ってもらいたくない。

そういうものごとを一面的にしか捉えられない人が

いったい何が「よいもの」だと判断できるのだろう?


それなら、今の若い人の

「よいもの」よりも「好きなもの」という考えの方が

ずっと好感を持てる。

「よいもの」がわからなければ、最初から考えない。

そっちの方がずっと誠実だと思う。


それに、気持ちとか心とか精神とか

なんでもいいけど、それを合理化して効率化していけば

当然、そうなるに決まってる。

共感の喜びとか、共に生きる喜びとか

それがどれだけ素敵なことだと気づいていても

それをするのはすごく難しいことで

人との関係だから、どれだけ努力しても報われないこともあるわけで

そんな苦労をするくらいなら

好きだと思えるものや、好きなことをして

個人的な満足で十分足りる。


どんなことでも理由はある。

因果の末に今がある。

僕にはなるようになっただけ

なるべくしてなっただけとしか思えない。



趣味が映画鑑賞で

毎週、映画館に行ってるっていう人と知り合いになった。

外資系の会社に勤めてるらしく

会話がほとんど英語なんだそうな。

中学一年レベルから、まったく進んでない僕にしてみれば

なんて過酷な世界なんだろうと思う。


顔をあわせたときから、知的な印象を受けたけど

話してみると、いろんなことをとてもよく考える人で

どこか人を試すような眼差しに

僕は少し戸惑ったけど

複雑な人ではなくて

合理的でさえあれば正しい考える人。

それさえわかればなんとかなるし、むしろわかりやすくて気が楽。


ただ、少し才気走っていて

たぶん好かれたり嫌われたりしながら生きてきたんだろうなぁ…と、思うし

好きになったり嫌いになったりして生きてきたんだろうと思った。

なんていうか、揉めてる様子が目に浮かぶ。


だけど、才気走ったり、知恵誇ったり

僕が言うのはどうかと思うけど

そうなるのもわかります。

ここまでくるには、結構な努力もあっただろうし

悔しさとか、勝敗を意欲にかえられるタイプの人は

そうなりやすいし、ちゃんと結果も出てると思う。


話を聞くことより、話すことの方が好き。

たぶん、好きというよりも

詰まらない話を聞かされるのが嫌なんだろう。

きっと、話の流れで次の言葉が想定できてしまうんだろうなぁ

だから言葉の出だしだけで何を言おうとしてるのかわかっちゃう。

人間なんてそれほど大きく違わないから

そのほとんどが想定内で、最後まで聞くのも面倒。


逆に想定外の言葉には関心を示してくれる。

僕が好感を持ったのは

そういうとき、ちゃんと考えてくれるところ。

考えた上で否定にしろ肯定にしろはっきり言うところも

潔くて心地よかったし

そういう人にありがちな、主観でバッサリ言葉にして切り取ろうとする

今ある言葉で簡単に括ってしまったりしない。

竹を割ったような…って表現があるけど

それって潔く見えて、たいがいは

秩序立ってないと気持ちが悪いとかで

自分の中にあるものに無理やり当てはめてバッサリって多くて

また、バッサリ割ったものは

もう勝手に秩序立てちゃったから、興味ないんだ。

頭に残すとか、心に残すとか

そうじゃなくて、あれは捨てるだよ。

捨てられる身にもなってみてほしいよ。


まぁ、なんであれ、そういうところがなかった。

そういう人は珍しいと思う。



それと、ちゃんと硬い殻の下に

柔らかいものもあるんだってことを、ためらいがちにも感じさせてくれた。

人に感じ取らせるってことは、ちゃんと期待してるってことなんだろう。

柔らかいものをふれあう楽しさとか、喜びとか

経験したことがあるんだろうと思った。

大人の小さなためらいは可愛らしいと思う。


ある人は不器用だって言うかもしれないし、臆病だって言うかもしれない。

でも、僕はそれでいいんだって思う。

不器用さは誠実だと言うことだし、臆病は知恵になる。

あとはそのときを待つだけだよ。

ただ、残念なのは、日々、歳を取り続けるってことだ。



それにしても思うのは

どうして映画好きな人って

みんな映画が好きだと思ってるんだろう?

好きじゃなくても、嫌いじゃないと思ってる。

僕はほとんど映画を見ないから

映画好きの人と話をすると、たいがい驚かれる。

2時間が面倒なんだ…って言うと、呆れられる。

後に残らないんだとしたら、何をしても一緒のような気がするんだけど

もしかすると、映画好きの人たちのあいだでは

観たということが何か大きな意味を持つのかもしれない。


僕はどちらかというと、誰かと一緒に見て、その後話をするのが好き。

映画自体がどうこうは思わない。

詰まらなくても楽しくても、まったく関係ない。

なにか引き出せるものがあればいいけど、

これまた人間の考えることなんて、大きく違わないから

新しい何かを感じるなんて無理なんじゃないかとも思う。

なるほど、僕もこういうところは似てるんだなぁ。



映画で思い出したけど

冷静と情熱のあいだ

そんな映画が昔ありました。

もちろん見てない。

見てないから、実際、そのあいだに何が描かれたのか知らない。

近頃、その冷静と情熱のあいだにあるものが

逡巡だと気づきました。

カビラさんがよく言う、何が彼を逡巡させたのか?の逡巡です。


大人になって人を好きになると

冷静にも情熱的にもなれず、そのあいだで逡巡するんですね。

冷静さを持ちえながら、冷静でいられる時間的余裕を持たない。

情熱的に向き合う純粋さを残しながら

純粋さは傷口でもあり、相手を傷つけるナイフにもなることを知ってる。

そのあいだでためらうんです。

歳に関係なく、好きになってしまえば

掛け替えのない唯一の人だと思い込みますけど

さまざまな経験をした大人が、そんな風に思ったときは

まさに逡巡、100兆分の1ですからね。




元旦に顔を噛まれて

だいぶ痛かったけど

会社の人はすごく楽しんでくれたみたいで

なかなか深い傷が残ってるけど

そんなに悪いことでもなかったような気になってる。


なにかを失えば、なにかを得れるかといえば

たしかにそうなのだろうし

なにかを得たら、なにかを失ってる

まぁ、そういうことなんだろう。


予期せぬものとか、欲しくはないものとか

いろいろあるけれども

そういう取引を日々繰り返しながら生きてることになる。

気持ちの問題、肯定的にあるいは否定的に迎える。気持ちの問題。



ただ、そういう予期せぬものじゃなく

自分が望んでるもの

得ようとしてるものを考えると

少し言い方を変えたほうがいいような気もする。


捨てるじゃなく、手放す。

得るということは、どこからか貰うということだし

奪うということかもしれない。

どちらにせよ相手のいること。


自分のことなんか考えなくても考えてる。

なんでそれが欲しいのか、それを得てどうしようというのか。


欲しいものが得られない、そのたいがいの理由は

自分のことばかりで

それを今持っている誰か、何かのことをちゃんと思わないからなんじゃないかと思う。


ただで何かを得ようなんて、相当の運がなきゃ難しい。

お金を持たず、買い物に行くようなもの。



もちろん120円で缶コーヒーを買うとか

そんなわかりやすく平等なものじゃなく

もっと自由で不平等な原始的取引になるわけで

それが交換とか取引の真髄というか、頭の使いどころというか

誠実さとか情とか人間性が試されたり、知恵とか脅しとか生まれとか環境とか

その人の力が試される。


それに固定相場じゃなく完全に変動相場だから

そのとき、その状況、その気分で対価が変わってくる。


もし、何かが欲しいなら

まず考えるのは、どれとなら交換が可能なのか考えることだと思う。


どうして自分は何も得ることができないんだろう?

こんなに必要としてるのに…

なんて悩むなら

そこを考えるべきだと思う。


よくよくその構造を見つめれば

運や偶然、賭けなんか最小限ですませられるはず。

そうじゃなきゃ、僕はもう負けることが決まった人生だよ。

まぁ、無理だとわかってても

目の前にきれいな宝石があれば

ついつい手を伸ばしたくなる。

二度と手に入れられないと信じれば、無謀でも賭けに出てしまう。

そういうことはしかたのないことだと思うし

そのくらいは許してくれてもいいと思うけど

無謀な賭けで相手を傷つけてしまうことも覚悟しなきゃいけない。

どうあれ、自分の利のことばかり考えてると

自分の利には決してならない。

そういうことだと思う。