マルコ9:14-29 <癲癇の息子の癒し> 並行マタイ17:14-21、ルカ9:37-43a
マルコ9 (田川訳)
14そして弟子たちのもとに来てみると、そのまわりに大勢の群衆がいて、律法学者が弟子たちと議論していた。15そしてすぐに、群衆がみな彼を見つけてひどく驚き、はしってきて、挨拶した。16そして彼らにたずねた、「あなた方は彼らと何を議論しているのか」。17そして群衆の一人が彼に答えた、「先生、私の息子が聾唖の霊に憑かれていて、先生のもとに連れてまいったのです。18どこであろうと霊が息子を捕まえると、息子をひき裂き、息子はあわをふき、歯ぎしりして、枯れてしまいます。それでお弟子さんたちに、霊を追い出してくれるようにと申しましたのですが、おできになりませんでした」。19彼は答えて彼らに言う、「おお、不信実な輩よ、いつまで私があなた達のもとにいられるか。いつまであなた達を我慢できよう。その子を私のところに連れておいでなさい」。20そして息子を彼のもとに連れて来た。そして彼を見ると霊はすぐに息子を引きつけさせ、息子は地面に倒れて、ころげまわり、あわをふいた。21そして父親にたずねた、「息子さんにこういうことが起こってから、もうどのくらいたつのですか」。彼は言った、「子供の時からです。22それもしばしばで、火の中や水の中に投げ込んだりして、息子を滅ぼそうとします。ですが、もしも何かをおできになるのでしたら、私たちを憐れんで、どうか私たちをお助け下さい」。23だがイエスは彼に言った、「もしもできれば、ですと?信じる者には一切が可能だ」。24そしてすぐに子どもの父親は叫んで言った、「信じます。私の不信実をお助け下さい」。25イエスは群衆が走り集ってくるのを見て、汚れた霊を叱りつけて言った、「聾唖の霊よ、私がお前に命じる、この子から出て行って、二度と中に入るな」。26そして霊は叫び、何度もひき裂いて、出て行った。そして子どもは死人のようになったので、多くの者たちが、この子は死んだ、と言った。27しかしイエスはその手をとって、起こした。そして起きた。
28そして彼が家に入ると、彼の弟子たちが自分たちだけで彼にたずねた、「私たちがこの霊を追い出すことができなかったのはどういうことでしょう」。29そして彼らに言った、「この種類は祈り以外のいかなることによっても出て行くことはあり得ない」。
マタイ17
14そして彼らが群衆のところに来ると、ある人が彼のところに進み出て、膝まづき、15言った、「主よ、私の息子に慈悲をお与え下さい。月下されていて、ひどく苦しんでいます。というのも、しばしば火の中に、またしばしば水の中に倒れるのです。16そして、お弟子さんたちのところに息子を連れて来たのですが、癒すことがおできになりませんでした」。17イエスは答えて言った、「おお、不信実で曲がった輩よ、いつまで私があなた達とともにいられるか。いつまであなた達を我慢できよう。その子をここに、私のところに、連れておいでなさい」。18そしてイエスは彼を叱りつけた。そして悪霊は彼から出て行き、子どもはその時点から癒された。19その時、弟子たちがイエスのもとに自分たちだけで進み出て、言った、「なぜ私たちはこの霊を追い出すことができなかったのですか」。20彼は彼らに言った、「あなた達の信仰が小さいせいだ。すなわち、アメーン、あなた達に言う、もしもあなた達がからし粒ほどの信仰を持っていれば、この山に対して、ここからあそこに移れ、と言うがよい。山は移るだろう。いかなることもあなた達には不可能ではないのだ」。
ルカ9
37次の日、彼らが山から下って来ると、彼が多くの群衆に出会う、ということがあった。38そして見よ、群衆の中から一人の男が大声をあげて言った、「先生、私の息子を看てやって下さるようお願いします。私の一人息子なのですが、39そして御覧下さい、霊がこの子をとらえると、突然叫びだし、あわをふいて引きつけるようにさせ、なかなか離れず、この子をうち砕いてしまうのです。40そしてお弟子たちに霊を追い出してくれるようにお願いしたのですが、おできになりませんでした」。41イエスは答えて言った、「おお、不信仰な種族よ、いつまで私があなた達のもとにいられるのか。またあなた達を我慢できようか。ここにあなたの息子さんを導いておいでなさい」。42子どもが進み出てくる間にもすでに、悪霊が彼を引き裂き、ひきつけさせた。イエスは汚れた霊を叱りつけ、子どもを癒した。そして息子を父親に返した。43皆の者は神の偉大さに驚嘆した。
マルコ9 (NWT)
4 さて,ほかの弟子たちのほうに来た時,彼らは,大群衆がそのまわりにおり,書士たちがこれと言い争っているのに気づいた。15 ところが,[イエス]を見かけると,群衆はみなぼう然とした。そして,そのもとに走り寄って,あいさつをはじめた。16 それで[イエス]は彼らにこうお尋ねになった。「あなた方は彼らと何を言い争っているのですか」。17 すると群衆の一人がこう答えた。「師よ,私は,息子が口のきけない霊につかれておりますので,あなたのもとに連れてまいりました。18 どこででも[息子]を捕まえますと,その[霊]は彼を地面にたたきつけ,彼は泡を吹き,歯がみして体力をなくしてしまいます。そして私は,あなたの弟子たちに,それを追い出してくれるように言いましたが,彼らにはできませんでした」。19 [イエス]はそれにこたえて彼らに言われた,「ああ,不信仰な世代よ,いつまでわたしはあなた方と共にいなければならないのでしょう。いつまであなた方のことを忍ばねばならないのでしょう。その[子]をわたしのところに連れて来なさい」。20 それで人々は彼を[イエス]のもとに連れて来た。しかし[イエス]を見ると,霊はすぐに[その子供に]けいれんを起こさせた。そして,[子供]は地面に倒れ,泡を吹きながら転げ回るのであった。21 それで[イエス]は,「こうした事がいつから起きているのですか」とその父にお尋ねになった。[父]は言った,「子供のころからずっとです。22 そして,[息子]を滅ぼそうとして,その[霊]は何度となく彼を火の中にも水の中にも投げ込んだものです。しかし,何かもしおできになるなら,私どもを哀れんでお助けください」。23 イエスは彼に言われた,「その,『もしできるなら』という言い方です! 信仰があるなら,その人にはすべてのことができるのです」。24 幼子の父は直ちに叫び,「私には信仰があります! 信仰の必要なところで私を助けてください!」と言うのであった。
25 その時イエスは,群衆が一緒になって[自分たち]のほうに走り寄って来るのに気づき,その汚れた霊を叱りつけて,「口のきけない耳しいの霊よ,わたしはお前に命じる。この[子]から出て,もう入ってはならない」と言われた。26 すると,それは叫び声を上げ,何度もけいれんを起こしてから出て行った。そして,[子供]は死んだようになったので,大半の者たちは,「彼は死んだ!」と言うのであった。27 しかし,イエスがその手を取って起こすと,彼は起き上がった。28 それで,[イエス]がある家に入られてから,弟子たちがそっと彼に尋ねた,「なぜわたしたちはそれを追い出せなかったのでしょうか」。29 すると[イエス]は彼らに言われた,「この種のものは祈りによらなければどうしても出ません」。
マタイ17
14 それから,一行が群衆のほうに来ると,ひとりの男が彼に近づき,その前にひざまずいてこう言った。15 「主よ,私の息子に憐れみをおかけください。[息子]はてんかんで病んでいるからです。何度も火の中に,何度も水の中に倒れ落ちるのです。16 そして,私は[息子]をあなたの弟子たちのもとに連れてまいりましたが,治すことができませんでした」。17 イエスは答えて言われた,「ああ,不信仰でねじけた世代よ,いつまでわたしはあなた方と共にいなければならないのでしょう。いつまであなた方のことを忍ばねばならないのでしょう。その[子]をここに,わたしのところに連れて来なさい」。18 それから,イエスは[その霊]を叱りつけられた。すると悪霊は彼から出て来た。そして少年はその時以後治ったのである。19 そこで弟子たちは自分たちだけでイエスのもとに来て,「わたしたちがこれを追い出せなかったのはどうしてでしょうか」と言った。20 [イエス]は彼らに言われた,「あなた方の信仰が少ないためです。あなた方に真実に言いますが,からしの種粒ほどの信仰があるなら,この山に,『ここからあそこに移れ』と言うとしても,それは移るのであり,何事もあなた方にとって不可能ではないのです」。21 ――
ルカ9
37 明くる日,彼らが山を下りると,大群衆が[イエス]を出迎えた。38 そして,見よ,群衆の中からひとりの男が叫んでこう言った。「師よ,私の息子をひと目見てやってください。私の独り息子ですのに,39 ご覧ください,霊が取りつくと,突然に叫びだすのです。その[霊]は[息子]に泡を吹かせながらけいれんを起こさせ,打ち傷を負わせた後にやっと引き下がるのです。40 そして,あなたの弟子たちに,それを追い出してくれるようにお願いしましたが,できませんでした」。41 イエスはそれにこたえて言われた,「ああ,不信仰でねじけた世代よ,いつまでわたしはあなた方と共にいて,あなた方のことを忍ばねばならないのでしょう。あなたの息子をここに連れて来なさい」。42 ところが,彼が近づいて来る時でさえ,悪霊は彼を地面にたたきつけ,激しくけいれんさせたのである。しかしながら,イエスはその汚れた霊を叱りつけ,少年をいやして,その父に引き渡された。43 そこで,人々はみな神の荘厳な力にすっかり驚くようになった。
マルコのこの物語は複雑にいくつかの要素が絡み合っている。
群衆は初めからその場面に登場している(9:15)のに、物語の途中では居なかったことになっているかのように、後半でイエスに駆け寄ってくる(9:25)。
律法学者と弟子たちの論争が描かれている前半の導入句は後半の病気治療の奇跡物語とうまく結び付いていない。
前半では「聾唖の霊」に関する話であるが、治療に関しては「癲癇」に関する話になっている。
前半に登場する律法学者と弟子たちとの物語は奇跡治療物語とは無関係の論争物語の導入句であったのだろう。
物語の途中にある19-20のイエスと弟子たちの問答は、物語が完結してからの編集句である。
18節の弟子たちが悪霊祓いを失敗して、無能ぶりを示す導入は、結びの「祈りによらなければならない」とする28-29節に対応している。
これらの絡み合ったちぐはぐさは複数の伝承を合成して一つの物語に編集しようとしたことに起因するのであろう。
マルコとしては、この時代にどのようにして悪霊祓いを行なうかの実例を通して、律法学者と弟子たちを絡めて複数の動機を織り込もうとしたのかもしれない。
マタイとルカはマルコの奇跡物語にイエスをキリスト化させて聖者伝説の強化を図っているだけでなく、マルコにおける弟子たちの無能ぶりを緩和させるように文を整えている。
マルコでは律法学者と「弟子たち」が「議論」している場面で物語が始まる。
マルコ9
14そして弟子たちのもとに来てみると、そのまわりに大勢の群衆がいて、律法学者が弟子たちと議論していた。15そしてすぐに、群衆がみな彼を見つけてひどく驚き、はしってきて、挨拶した。16そして彼らにたずねた、「あなた方は彼らと何を議論しているのか」。17そして群衆の一人が彼に答えた、「先生、私の息子が聾唖の霊に憑かれていて、先生のもとに連れてまいったのです。18どこであろうと霊が息子を捕まえると、息子をひき裂き、息子はあわをふき、歯ぎしりして、枯れてしまいます。それでお弟子さんたちに、霊を追い出してくれるようにと申しましたのですが、おできになりませんでした」。
マタイ17
14そして彼らが群衆のところに来ると、ある人が彼のところに進み出て、膝まづき、15言った、「主よ、私の息子に慈悲をお与え下さい。月下されていて、ひどく苦しんでいます。というのも、しばしば火の中に、またしばしば水の中に倒れるのです。16そして、お弟子さんたちのところに息子を連れて来たのですが、癒すことがおできになりませんでした」。
ルカ9
37次の日、彼らが山から下って来ると、彼が多くの群衆に出会う、ということがあった。38そして見よ、群衆の中から一人の男が大声をあげて言った、「先生、私の息子を看てやって下さるようお願いします。私の一人息子なのですが、39そして御覧下さい、霊がこの子をとらえると、突然叫びだし、あわをふいて引きつけるようにさせ、なかなか離れず、この子をうち砕いてしまうのです。40そしてお弟子たちに霊を追い出してくれるようにお願いしたのですが、おできになりませんでした」。
マルコ冒頭の「そして来る」(kai elthOn)は男性単数(カイサリア系)の読みとする写本と男性複数(アレクサンドリア系・ネストレ)の読みとする写本がある。
前段からの続きとすると意味的には複数の読みになる。しかしながら単数の方が前後の繋がりとは無関係にイエスを主語にして新たな物語をはじめるマルコらしい言い方である。(1:29参照)
また、マルコにおけるカイサリア系写本の重要性やlectio difficiliorの原則からしても単数の読みが原文であろう。
マタイとルカの「来る」はどちら男性複数形。
NWTは「さて、他の弟子たちのほうに来た時」と訳しており、イエスが「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ以外の弟子たちのほうに来た時」とも、「イエスと一緒に居た三人の弟子たち一行が来た時」とも読める書き出しにしているが、「彼らは」と主語を補っており、複数形の読みを支持している。
しかし、複数の読みを取るとしても、マルコの原文には「来る」という男性複数の動詞のほかに、「彼ら」という主語があるわけではない。
「みる」の動詞も三人称単数形であり、主語はイエスだけであることを示している。(KIはeiden=they-sawと複数形に字義訳)
この句で複数形の動詞は、「議論していた」(suzEtountas)だけである。
つまり原文の「来る」を単数形の読みであることを認めながら、複数形の読みを採用しているのである。
「来る」という動詞が単数であるのか複数であるのかの違いが、意味上にどのような違いを生じさせるか。
単数であれば、イエスが一人で「弟子たち」のところに来た、という意味になる。
複数であれば、「山上の変身」に臨場した「ペテロとヤコブとヨハネ」がイエスとともに、「ほかの弟子たち」のところに来たという意味になる。
NWTは、この解釈になる。
しかし、マルコは「弟子たち」という表現を原則として「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」の三人に対してのみに使う。(5:31,37、6:1参照)
マタイのように、「十二弟子」すなわち「十二使徒」を指して「弟子たち」という言い方はしない。(マタイ10:1-2参照)
とすれば、マルコの「来る」を複数と読むのはおかしいことになる。
イエスは「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」と一緒に居たはずなのに、「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」も律法学者たちと議論していた、ということになるからである。
つまり、マルコは、イエスが一人でペテロ・ヤコブ・ヨハネらの「弟子たち」のところに来た時、彼ら「弟子たち」が律法学者たちと議論していた場面に出くわした、という設定でこの物語をはじめたのである。
それに対して、マタイは、彼らが「来た」のは「弟子たち」のところではなく、「群衆」のところに「来た」(elthontOn)と複数形の動詞で物語を始めている。
ルカも「多くの群衆」が出会ったのは、「弟子たち」ではなく「彼」(イエス)としているが、「下って来る」のは複数であることを示し、「彼らが」という主語を置いている。
しかも、いかにも、ルカらしく、イエス(たち)が「山から」下ってきた、という設定とした。
ルカは、「次の日」の出来事としているが、マルコは「山上の変身」の「次の日」に起きた出来事としてこの奇跡物語を設定しているのではなく、「山上の変身」とは無関係に次の話に移っているだけである。
ルカの記述に従がうなら、「山上の変身」物語と連続した奇跡物語となり、ペテロ・ヨハネ・ヤコブの弟子たちはイエスの変身を体験した山で一晩過ごし、「次の日」、イエスが祈りのために上った山(9:28)から一緒に下ってきた時に「群衆」に遭遇したという設定になる。
マルコによれば、14「弟子たちは律法学者と議論して」おり、その様子を14「大勢の群衆」が取り囲んでいて観察していた。
群衆は議論の場に来たイエスを見つけて15「ひどく驚く」(ekthambeomai)のであるが、この「驚き」はマルコの奇跡物語における結びの定型と同じ「驚き」を示すものだろう。
しかし、単にイエスがそこに来たというだけで、奇跡を見たかのように「驚く」というのは大袈裟すぎる。
おそらくマルコとしては、イエスの存在そのものが奇跡的大きさなので、そこにイエスが居ると言うだけで「驚き」に価する、と言いたいのであろう。
マルコでは、「群衆」はイエスを見つけると、「驚き」、走ってきて、挨拶するだけである。
マタイのイエスに対して「群衆」は、14「進み出て、膝まづき」、15「主よ」と呼びかけた上で、15「慈悲をお示しください」というキリストの救済信仰告白をもって、近づくのである。
マタイでは、イエスに対するキリスト信仰と教会的礼拝手順が読み込まれている。
そしてマルコのイエスは16「彼ら」に、「あなた方は彼らと何を議論しているのか」と尋ねる。
「彼ら」とは誰を指すのか。
文法的には「群衆」を指す。
イエスが「群衆」にたずねた、という意味になるが、「群衆」は議論に参加しているのではなく、まわりで議論を観察していただけである。
議論は「弟子たち」vs「律法学者」であるから、「あなた方」=「弟子たち」であり、議論相手の「彼ら」=「律法学者」を指すことになる。
議論している人間に尋ねているのであるから、イエスが尋ねた16「彼ら」とは、内容的には「あなた方」である「弟子たち」を指すことになる。
しかし、文法的には「群衆」であり、イエスの質問に答えたのは、「議論」に参加していないはずの「群衆の一人」である。
とすれば、ここは走り寄ってきた群衆を見ながら、弟子たちに「あなた方は律法学者と何を議論していたのか」と尋ねた、という趣旨であろうか。
いずれにしても、「弟子たち」と「律法学者」は同じ土俵で議論しているが、「群衆」はそのどちらとも距離を置いており、「イエス」の近くに居る、というのがマルコの構図である。
「弟子たち」と「律法学者」との間でどんな問題に関して「議論」をしていたのか。
「群衆」の一人の病気治癒依頼に対して、イエスの18「お弟子さんたち」は、期待に応えることができず、「おできにならなかった」ことに関して議論していた、というのである。
「お弟子さんたち」(tois mathEtais sou)の直訳は「あなたの弟子たち」であるが、定冠詞付き。絶対用法的に述べられており、「ご立派なイエスの弟子たちであるはずなのに…」という気持ちが込められている。
この感情は父親のものというより、マルコの感情を表わしているのだろう。
マルコでは、マタイやルカとは異なり、イエスは一人で「弟子たち」のもとに「来た」のであり、イエスが来た時に、「弟子たち」は「律法学者」と議論していた。
つまり、治療依頼は一人であるが、「お弟子さんたち」は誰一人として、群衆の病気治癒の期待に応えることが、「おできにならなかった」のである。
それに対し、マタイでは「山上の変身」の続きとして読むと、群衆のところに来た14「彼ら」とは、イエスと三人の弟子(ペテロ・ヤコブ・ヨハネ)たちであると読むことになる。
とすれば、群衆から病気治癒の依頼をされていた「弟子たち」の中にこの三人は入っていないことになる。
つまり、16「癒すことがおできにならなかったご立派なイエスのお弟子さん」は「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」を除いた「お弟子さん」たちを指すことになる。
ルカもマタイと同じ構造であり、40「おできにならなかったお弟子さん」とは、「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」を除いた「お弟子さん」たちを指すことになる。
マルコでは、父親は息子の疾患を17「聾唖」(alalon字義:「唖」)の霊としているが、イエスが癒したのは25「聾唖」(alalon kai kOphon)の霊と両方であったことを示している。
しかし、20節以降の息子の症状からすると、「聾唖」ではなく「癲癇」であったと思われる。
ただし、「癲癇」(epiptikos)という語は、新約全体でも一度も出て来ない。
マタイは15「月化された」(lunaticus)という語を用いている。(NWT「てんかん」)
マタイ4:24にも登場するが、必ずしも「癲癇」を意味するわけではなく、月に影響されて発症すると考えられていた精神的ないし身体的な異常を示す症状に適用されていた。
ルカは、父親が38「大声をあげて」イエスに近づき、38「一人息子」であったことにして、奇跡的治療の有難味を強調させている。
ただし、ルカには癲癇症状に関するマルコの文を写しているが、マルコのように「聾唖」とも、マタイのように「月化された」とも書かれていない。39「霊」がとらえた症状であるとしている。
いずれにしても、イエスの「お弟子さんたち」は誰一人として治療することができなかったのである。
議論の内容と弟子たちの不手際の報告を受けたイエスは次のように答える。
マルコ9
19彼は答えて彼らに言う、「おお、不信実な輩よ、いつまで私があなた達のもとにいられるか。いつまであなた達を我慢できよう。その子を私のところに連れておいでなさい」。
マタイ17
17イエスは答えて言った、「おお、不信実で曲がった輩よ、いつまで私があなた達とともにいられるか。いつまであなた達を我慢できよう。その子をここに、私のところに、連れておいでなさい」。
ルカ9
17イエスは答えて言った、「おお、不信実で曲がった輩よ、いつまで私があなた達とともにいられるか。いつまであなた達を我慢できよう。その子をここに、私のところに、連れておいでなさい」。
イエスは「群衆」の一人である病気の息子を持つ父親の報告に答えるのであるが、イエスは誰に対して「不真実な輩」と言っているのだろうか。
マルコのイエスは「彼らに」言っているのであるから、イエスに答えた病気の息子を持つ「父親」に言っているのではない。
とすれば、「群衆」か「弟子たち」かのどちらかに対して「不信実な輩」と言っていることになる。
しかし、「群衆」は病気の治療に対して「議論」していない。
病気治療の無能ぶりに関して「議論」していたのは、「弟子たち」と「律法学者」である。
つまり、イエスから「あなた方」と名指しされているのは、病気治療できなかった「お弟子さんたち」を指していると読める。
マルコのイエスは、「お弟子さんたち」を指して、「不信実な輩」(NWT:「不信仰な世代」)(ho genea apistos)と呼んでいるのである。「不信実な」(apistos)は、否定辞の接頭語a-+pistos「信実な、信頼できる」で、NWT訳的には「信仰のない」という意味になる。
マタイのイエスは、「弟子たち」を20「信仰が小さい」(oligopistian)と評価することはあるが、「不信実」(apistos)と彼らの「信仰」を完全否定することはない。
マタイのイエスは「彼らに」言ったのではなく、前文の発言者に17「答えて言った」としている。
16「お弟子さんたちは癒すことがおできになりませんでした」と答えたのは、14「群衆」の中に居た父親である。
マタイのイエスはその父親に対して、17「不信実で曲がった輩」と告げたのであり、17「あなた方」に対して、17「いつまでともにいられるか」17「いつまで我慢できようか」語ったことになったのである。
マタイは「あなた方」を「弟子たち」ではなく、「群衆」と解したので、「曲がった」という語を加え、「不信実」を強調してくれたのであろう。
マルコの「不信実な輩」がマタイでは「不信実で曲がった輩」となり、「お弟子さんたち」から、「群衆」にすり替わってしまったのである。
ルカもマタイと同じく、38「群衆」の中からの一人の男の報告にイエスは答えて言った、という設定である。
ルカのイエスも一人息子の父親を含む「群衆」に対して41「おお、不信仰な種族よ」と呼びかけたことになった。
マルコ・マタイの「不信実」とルカの「不信仰」はどちらも同じ形容詞。pistosの否定形apistos。
マタイはマルコを写しているのであるから意味的には「不信実」の意。
ルカは、キリスト教信仰のことを考えているので、「不信仰」。
マルコ・マタイの「輩」とルカの「種族」は、どちらも同じ語のgenea。
NWTが「世代」と訳している終末預言を解釈する鍵となる語。
「終わり」が来なくなると「重なる」ことが繰り返されると予想される「世代」である。((笑))
このgeneaという語は、前にも説明した(マルコ8:10-21<天からの徴とパリサイ派のパン種>)が、原文のギリシャ語は、JWにもおなじみの語。
語幹gen-は「生れ」の意。
そこから派生した語で、原意は「生れを同じくする人々」。
これを時間的な意味に取れば、「世代」。つまり「同じ時期に生れた人々」の意。
これを血筋の意味に取れば、「氏族」。つまり「同じ血筋の先祖に生れた人々」の意。
マルコ・マタイでは、目の前にいる人々に対して語りかけているので、「この連中」、「輩」という趣旨。
ただし、マルコは目の前にいる「弟子たち」に対して「不真実な輩」と言っているが、マタイは「あなた達」とは「群衆」だと解したので、「不信実」だけでなく「曲がった」を付加した。
マタイとしては「弟子たち」は「信仰が小さい」だけであるが、「群衆」は「不信実で曲がった輩」だと差別化を図りたかったのだろうか。
田川訳「新約聖書」では、マルコ福音書「訳と註」の「不信実な輩」から「不信の徒」と改訂されている。
その理由は、「弟子たち」が病気治癒出来なかった原因が要因であろう。
「輩」を「徒」に改訂したのは「輩」とは「使徒たち」を指していることを意識してのことであり、「不信実」を「不信」と改訂したのは、弟子たちの病気治癒失敗の原因は父親の「不信」と同じであることを示唆するためであろう。
24節の父親の嘆願も「私の不信実をお助け下さい」(「訳と註」)から「私の不信をお助け下さい」(「新約聖書」)に改訂されている。
とすれば、父親の治療失敗の報告を受けたマルコのイエスが答えた19「彼ら」とは、「弟子たち」だけではなく、「父親」も含まれるのかもしれない。
「不信の徒」=「あなた達」にも「父親」が含まれるのかもしれない。
いずれにしても、マルコのイエスの奇跡的病気治療能力に対して、「不信実な輩」や「不信の徒」には、奇跡的治癒はもたらされないようである。
ルカは、11:29でもgeneaを用いており、「ニネヴェの人々や南の女王」(昔の伝説的な時代の人々)と比べて「このgenea」と言っている。
「今の世代の人々」という意味で使っていると考えられる。
さらに、11:50でも「このgenea」という語を「アベルの血からルカの時代のゼカリアの血に至るまで」のユダヤ人全体を指して使っている。
そこでは、このgeneaという語を「ユダヤ民族」という意味で使っているのだろう。
従がって、この個所のルカのgeneaも、単に目の前にいる「群衆」の連中という意味ではなく、「ユダヤ人の連中」という意識を込めて使っていると思われる。
ルカにすれば、イエスを神のキリストと認めない「ユダヤ人」も「群衆」も、同類の「種族」の集団であるという意識が働いたのであろう。
それで、訳語の統一からははずれるが、田川訳では、ルカのこの個所を「輩」ではなく、「種族」と訳している。
「新約聖書」のマルコ福音書では、「徒」と訳している。マタイとルカは「輩」と「種族」とそのままである。
マルコの「あなた達」を「弟子たち」ではなく「群衆」と解すると、イエスが何故群衆に対して19「いつまで私があなた達のもとにいられるか。いつまであなた方を我慢できよう」と言ったのか理解できなくなる。
「群衆」はイエスを見つけると「ひどく驚いて」、つまりイエスの存在に驚愕するほどの「信実」「信頼」を示し、走ってきて、挨拶しているのであり、「不信実」(「不信」)と呼ばれるほどの信頼を欠いた態度をイエスに示していないからである。
マルコにおいて、イエスに対して「信頼」の欠けた態度を示すのは「群衆」ではなく、「弟子たち」である。
マルコのイエスから、「無理解」と「不信実」として苦言を呈されているのは、常にペテロをはじめとする「弟子たち」である。
WTは「不信仰の世代」を次のように解釈している。
*** 塔88 1/15 8ページ 悪霊に取りつかれた少年がいやされる ***
どうやら書士たちは,弟子たちがその少年をいやせなかったのを見て騒ぎたて,弟子たちの努力をあざけっているようです。ちょうどその時にイエスが到着されました。そして,「ああ,不信仰な世代よ,いつまでわたしはあなた方と共にいなければならないのでしょう。いつまであなた方のことを忍ばねばならないのでしょう」と言われます。
イエスは,居合わせた人すべてにその言葉を述べておられるようですが,特に,弟子たちを困らせていた書士たちに対して言われていることは疑えません。それからイエスはその少年のことに触れ,「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われます。
マルコでは「書士たち」と「弟子たち」が「言い争っていた」という記述はあるが、「書士たちが弟子たちの努力をあざけっていた」などとする記述はない。
父親がイエスに事情報告する場面にも「書士たち」は登場しない。
並行のマタイとルカには「書士」そのものが登場しない。
当然「弟子たち」と「書士」たちが議論していたとする記述もない。
それなのにマルコのNWT「言い争っている」(田川訳「議論していた」)をWTのように解釈するのであれば、もはやNHKの大河ドラマか歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の虚構の世界。
虚構を前提に、「不信仰」なのは、当然ながら「弟子たち」ではなく「書士たち」であるから、「書士たち」に対して言われていることに決まっている、疑うな、という解釈である。
「病気治療」の奇跡を実践しようとしていたのは「弟子たち」であり、治療に失敗していたのも「弟子たち」であり、「書士たち」ではない。
父親が「弟子たち」の「治療失敗」をイエスに報告し、イエスは「治療失敗」の原因を「信仰の欠如」(NWT:「信仰の必要なところ」脚注)であると父親に指摘している。
つまり、「弟子たち」の「信仰の欠如」が「治療失敗」を生じさせたのであり、「不信仰な世代」である「あなた方」とは「弟子たち」(もしくは「父親」を含む)を指すことは自明のことと思われる。
イエスと父親の問答のどこにも登場しない「書士」を「あなた方」と読むと解釈するのは「弟子たち」の信仰を擁護しようとする護教主義に惑わされた洗脳解釈であろう。
統治体は聖霊を注がれており、イエスのような素晴らしい信仰と人格の持ち主であるから、統治体に従い、「奇妙で異例の教え」でも「信じる者は救われる」のでしょうから、どうぞご自由に。
閑話休題。
マルコのイエスはイエスの「弟子たち」(あるいは「父親」を含めて)を「不信実な輩」(新約聖書「不信の徒」)であると評価した上で、「弟子たち」(あるいは「父親」)にその子を連れて来させ、治療を開始するのである。
マタイのイエスは一般の「群衆」を「不信実で曲がった輩」と評価して、イエスのところに連れて来させ、治療を開始する。
しかし、イエスの生前中に、キリスト教は存在していない。
明らかにキリスト教会のキリスト信仰を読み込まなければ、「群衆」に対して「不信実」だけでなく「曲がった」などという評価を下すことはできないはずである。
マタイは、キリスト教会の信仰を読み込んで、イエスが「群衆」に対して「不信実で曲がった輩」と呼びかけたことに書き変えたのである。
ルカのイエスは、まだユダヤ教の神を信じていない「群衆」をイエスに敵対している「ユダヤ人種族」と重ねながら、その子を「導き」いれるように招き、治療を開始する。
マルコ9
20そして息子を彼のもとに連れて来た。そして彼を見ると霊はすぐに息子を引きつけさせ、息子は地面に倒れて、ころげまわり、あわをふいた。21そして父親にたずねた、「息子さんにこういうことが起こってから、もうどのくらいたつのですか」。彼は言った、「子供の時からです。22それもしばしばで、火の中や水の中に投げ込んだりして、息子を滅ぼそうとします。ですが、もしも何かをおできになるのでしたら、私たちを憐れんで、どうか私たちをお助け下さい」。23だがイエスは彼に言った、「もしもできれば、ですと?信じる者には一切が可能だ」。24そしてすぐに子どもの父親は叫んで言った、「信じます。私の不信実をお助け下さい」。25イエスは群衆が走り集ってくるのを見て、汚れた霊を叱りつけて言った、「聾唖の霊よ、私がお前に命じる、この子から出て行って、二度と中に入るな」。26そして霊は叫び、何度もひき裂いて、出て行った。そして子どもは死人のようになったので、多くの者たちが、この子は死んだ、と言った。27しかしイエスはその手をとって、起こした。そして起きた。
マタイ17
18そしてイエスは彼を叱りつけた。そして悪霊は彼から出て行き、子どもはその時点から癒された。
ルカ9
42子どもが進み出てくる間にもすでに、悪霊が彼を引き裂き、ひきつけさせた。イエスは汚れた霊を叱りつけ、子どもを癒した。そして息子を父親に返した。
マルコでは、イエスを見ると、「霊」は子どもに「ひきつけ」を起こさせたり、たおれて、あわをふかせたり、してイエスの治療に抵抗する。
マタイとルカには、これらの「霊」の抵抗に関する描写はなく、「信実」もしくは「信」(pistos,pistis)に関するイエスと父親の問答もない。
簡単な病気治癒の結果とイエスの聖人化を強化させたキリスト像に仕立て直している。
マルコの18「霊を追い出す」ことの依頼に対し、マタイは16「癒す」(therapeusai)ことの依頼である。
ルカは40「霊」42「悪霊」の追い出し依頼であったとしている。
しかしながら、マタイでは18「悪霊が出ていく」と「子どもはその時点で癒された」とあるから、悪霊祓いと病気治癒とは同じことであったのだろう。
ルカでも、イエスは42「汚れた霊」を叱りつけて、42「子どもを癒した」のであるから、悪霊祓いと病気治療は同じことであったのであろう。
マルコも18「霊を追い出す」ことの依頼であるが、当時「病気」やある種の「疾病」は「霊」や「悪霊」の仕業と考えられていたのだから、同じことである。
マタイのイエスが治療を施す際、18「彼を叱りつけた」とあるが、18「そして悪霊は彼から出て行き」とある。
悪霊が出て行った「彼」とは「子ども」を指しているのであるから、叱りつけられた「彼」とは「子ども」のことではなく、「悪霊」を指すのであろう。
マタイの18「その時点で」とは、イエスが悪霊を「叱りつけた」時点のことを指している。
つまり、イエスが悪霊を叱りつけると、直ちに悪霊は子どもから出ていき、子どもは癒された、という趣旨である。
マルコでは、25「聾唖の霊」がマルコのイエスの25「命令」に26「何度も引き裂いて」抵抗し、26「死んだ」と思われるほど困憊させ、26「出て行った」のであり、27「イエスがその子の手をとって、起こした」時、治療は完了するのである。
マタイのように、「叱りつけた」、「その時点で」癒されたのではない。
マルコでは、イエスが「霊」に「出て行け」と命じてから、実際に「霊」が出て行くまで、かなりの時間差が生じている。
ルカでも42「悪霊」は子どもを「引き裂き、ひきつけさせた」のであるが、ルカはイエスが「汚れた霊」を叱りつける前の出来事であることにした。
しかし、ルカのイエスが「叱りつける」と「治療」は完成しているのであるから、ルカのイエスにも言葉を発するだけで病気治療を可能にする神通力が備わっているらしい。
マルコのように「悪霊」が出ていく時に、憑かれている人に悪さをすることもない。
マタイやルカのイエスの神通力は、マルコのイエスの神通力よりもはるかに強力になっているようである。
マルコでは21「もしも何かをおできになるのでしたら、私たちを憐れんで、どうか私たちをお助け下さい」と父親がイエスに訴える。
しかし、イエスは23「もしも出来れば、ですと?信じる者には一切が可能だ」と父親に答える。
「信じる者」(tO pisteuonti)に関して、一応二通りの意味が考えられる。
一つは「信じる者は何でもできる」と主格的な意味に解する。
もう一つは与格の意味で、「信じる者に対しては何でも起こりうる」と解するもの。
しかし、語っているのはイエス自身であり、「信じる」ことが問題になっているのは、イエスではなく「父親」の方である。
主格的な意味で、イエス自身が信じる者であるのだから、何でも出来る、と言っているわけではない。
与格的な意味で、父親が信じるならば、何でも奇跡的な事柄がその父親たちに対して起こり得る、と言っている。
父親はどのような意図で「もしも出来れば…」と言ったのだろうか。
イエスは、なぜ父親に否定的な対応をしたのだろうか。
イエスの答えを手掛かりに考えてみる。
イエスの何を「信じる」もしくは「信頼する」者には一切が可能だと言っているのだろうか。
キリスト教における救済信仰の基盤となる「贖い」を信じる、もしくは「信頼する」というものではないはずである。
キリスト教信仰が成立する以前の話だからである。
同様の理由で、イエスを「キリスト」と信じることでもないはずである。
この物語は、「病気治療」もしくは「悪霊祓い」の奇跡物語である。
とすれば、イエスの「治療能力」もしくは「悪霊を追い出す能力」に対するpistos(形容詞的な意味で「信実」もしくは「信」)あるいはpistis(名詞的な意味で「信実」「信」)を指しているものと考えられる。
つまり、マルコのイエスを「信じる」ということは、イエスの奇跡をなす力を「信じる」ことであり、イエスの治療能力を「信頼する」であろう。(5:36参照)
マルコは、イエスに対する「信」(形容詞:pistos、名詞:pistis)こそが病気を癒す、と考えているのだろう。
そう考えると、父親の「もしも出来れば…」と言った意図も、イエスが否定的な対応をしたことも、「弟子たち」に対していつまであなた達を我慢できよう、と言った理由も理解できる。
「キリスト教会信仰」の「キリスト信仰」でもなく、「再臨」や「復活」の「キリスト信仰」でもなく、「イエスの治療能力」に対して十全に「信頼する」(pisteuo)者のことをマルコは「信じる者」(tO pisteuonti)と呼んでいるのであろう。
イエスを「信じる者」は、そのように「信頼する」(pistos)べきである。
それなのに「弟子たち」は「病人を癒すことが出来なかった」。
それで、マルコのイエスは「弟子たち」に対して、19「不真実な輩」、つまり「イエスの治癒能力に対する十全の信頼のない輩」と評価し、19「いつまであなた達のもとにいられるのか。いつまであなた達を我慢できようか」と語るのである。
私(イエス)はいつまでも、あなた達(弟子たち)と一緒にいられるわけではない。いずれあなた方は自立して私の病気治療の業を引き継いでもらわなければならない。いつまで私の助力を必要としているのだ。いつまで我慢すれば、あなた達は自分たちだけで病気治療が出来るようになるのだ、という趣旨でマルコのイエスは弟子たちに告げたのであろう。
イエスに22「もしも何かをおできになるのでしたら…」という言い方で近づいた病気の息子を持つ父親に対して、イエスが23「もしもできれば…」という言い方に不快感を示し、「信じる者には一切が可能だ」と答えたことの理由も理解できる。
父親はイエスに近づく際に、謙遜さを示して、「もしもできれば…」と近づいたのではない。
イエスの奇跡をもたらす治癒能力に対して「十全の信頼」を持たずに「もし何かおできになるのでしたら…」と近づいたのである。
マルコのイエスはその「不信」(apistos)に対して不快感を示したのであり、「信じる者」(tO pisteuonti)つまり「イエスの治癒能力を十全に信頼する(pistos)父親」には、「一切が可能だ」つまり「奇跡的病気治癒」は可能だ、と告げたのである。
それを父親が理解したので、24「信じます」(pisteuen)、私の「不信実」(apistos)をお助け下さい」つまり「不信実」(apitos)から「不」を取り除き、「信実」(pistos)となるよう助けてくれるよう、イエスに叫んで言ったのであろう。
「訳と註」の「私の不信実」から、新約聖書では「私の不信」に改訂されている。
「群衆」の中の一人であるこの「父親」は、イエスの病気治療能力に対する十全の「信」(pistos)を抱くことの重要性を理解したのである。
それに対し、マルコの「弟子たち」は、自分たちが治療できなかったことの理由を理解できないままで物語は終わる。
マタイのイエスは、その理由をマルコのイエスとは異なるものとして、今後の病気治療は「弟子たち」にも可能であることを示すのである。
マルコ9
28そして彼が家に入ると、彼の弟子たちが自分たちだけで彼にたずねた、「私たちがこの霊を追い出すことができなかったのはどういうことでしょう」。29そして彼らに言った、「この種類は祈り以外のいかなることによっても出て行くことはあり得ない」。
マタイ17
19その時、弟子たちがイエスのもとに自分たちだけで進み出て、言った、「なぜ私たちはこの霊を追い出すことができなかったのですか」。20彼は彼らに言った、「あなた達の信仰が小さいせいだ。すなわち、アメーン、あなた達に言う、もしもあなた達がからし粒ほどの信仰を持っていれば、この山に対して、ここからあそこに移れ、と言うがよい。山は移るだろう。いかなることもあなた達には不可能ではないのだ」。
ルカ9
43皆の者は神の偉大さに驚嘆した。
マルコの結びの句となっている28-29節は、直接的には、18「お弟子さんたちに、霊を追い出してくれるようにと申したのですが、おできになりませんでした」という節に対応している。
奇跡物語伝承においては、弟子たちの治療失敗の原因は、「不信実」(新約聖書:「不信」)に起因するとしていたが、結びの句では、「祈り」が起因だとしている。
「祈り以外」の読みは、シナイ写本の第一写記とバチカン写本の二大重要写本が主であるが、ビザンチン系を含む大多数の写本は「祈りと断食以外」の読みであり、「断食」を付加している。
エラスムス(1466-1536)以降の翻訳はルター、ティンダルから欽定訳まで、すべて「断食」という語を付け加えていた。
しかしながら、大文字写本のACDLWΘΨ、小文字写本のf1、f13、シナイ写本の第二修正等も「断食」を入れている。
lectio diffiliciorの原則からして、「断食」が入らない読みが原文であるが、「断食」が付加されたのは、4世紀以前のかなり早い時期に挿入されたものと考えられる。
おそらく、この結びの句は、14-27節の奇跡物語伝承に対する後の付加であろう。
マルコがこの個所に組み入れたものか、マルコ以前から組み入れられていたものかは不明。
この28「種類」の原語(genos)は、19「輩」(genea)と同根で、geneaよりも、同じ生れの一族、種類という意味が強い。
「悪霊」もいろいろあるが、「この種類の霊」は、という趣旨。
「病気治療」あるいは「悪霊祓い」に関してキリスト教会が「祈り」や「断食」を含めて、いろいろな方法を試みて、実践していたのだろう。
マタイは、治癒失敗の原因を父親の「不信実」(新約聖書「不信」apistos)とするマルコのイエスとの会話を全部削除した。
その上で、弟子たちがこの霊を追い出すことが出来なかったのは、20「あなた達の信仰が小さい」(oligopistian umOn)せいであることにした。
イエスと同じ信仰の大きさ、強さがあるならば、あなた達も「悪霊を追い出すことが可能であることを示唆したのである。
マルコでは「祈り」以外では不可能である、としたイエスの言葉が、マタイでは「信仰」の大小によって「病気治療」もしくは「悪霊祓い」の成否が決まることになったのである。
その上で、マタイのイエスは20「からし粒ほどの信仰をもっていれば、山を移すことも可能だ」と信仰の強化を図るのである。
マルコでも同趣旨のイエス発言が「イチジクの木が枯れた」場面の11:23に出て来る。
マタイにはマルコの並行に同じ趣旨の発言が21:21でもう一度登場する。
ルカにも同趣旨の発言が「信仰を増してください」という弟子たちの要請に答える場面の17:6に登場する。
参マルコ11
23アーメン、あなた方に言う。もしも誰かがこの山に、動いて海の中にとびこめ、と言って、心で疑わず、自分が言うことは実現するのだと信じるならば、その者にはそのようになるであろう。
参マタイ21
21答えてイエスが彼らに言った、「アメーン、あなた方に言う。もしもあなた方が信を持ち、疑わなければ、このいちじくのことができるだけでなく、この山に、動いて海の中にとびこめ、と言えば、そのようになるだろう。
参ルカ17
6主は言った、「もしもあなた達がからし粒ほどの信仰を持っているなら、この桑の木に、根を抜いて、海の中に植われ、と言いなさい。桑の木はあなた達に聞き従うであろう。
この個所のマタイの言いまわしと参照箇所の言いまわしがそれぞれ微妙に異なっている。
参マタイ21が参マルコ11の並行箇所あることはすぐにわかるが、参ルカ17は単純に参マルコ11の並行とはなっていない。
この個所と参ルカ17にはどちらにも「からし粒ほどの信仰」という表現が共通しているが、同趣旨であっても言いまわしが大きく異なっており、Q資料のものとは考え難い。
信仰を強化するためのイエス伝承がいくつかのパターンに分かれ伝承されて、マルコ、マタイ、ルカそれぞれのもとに届いたのであろう。
ルカは、皆の者は神の偉大さに「驚嘆した」(thaumazontOn)と最後にマルコの「驚き」(exthambEthe)の動機を奇跡物語の結びに置いている。
接頭語の有無の違いだけで、どちらも奇跡物語の結びに置かれる定型として使われる動詞である。
マルコでは15「群衆はみな彼を見つけてひどく驚き」と物語の最初に置いている。
ルカは奇跡物語の定番に従い、結びに移動させたのだろう。
その際、「群衆」を「弟子たち」と一緒に登場させたくない「群衆」嫌いのルカらしく、マルコの「群衆」を削り、「みな」だけを残した。
マルコでは、「群衆」が「イエス」を見つけて「ひどく驚く」のであるが、ルカは「みな」が「神の偉大さ」に「驚愕した」ことにした。
「驚き」の対象が「イエスの存在」から「神の偉大さ」にすり替えたのである。
マルコとマタイは基本的にはすでに神を信じている人たちを対象にマルコはイエス、マタイはキリストを伝えようとしている。
それに対してルカは、ユダヤ教やキリスト教の「神」、もしくは万物の創造者たる「神」を知らず、まだ「神」を信じていない人たちに対して、まずその「神」を信ぜよ、と説こうとしている。
それで、「神の偉大さ」という句を挿入したのだろう。
「群衆」が「驚いたり」「讃えたり」する対象が、マルコの「イエス」から「神」にすり替わる箇所がルカにはこの個所以外にもいくつか登場する。(マルコ10:52→ルカ18:43、マルコ11:9→ルカ19:35参照)
奇跡的治療物語に関するWTの解説は以下の通り。
*** 塔88 1/15 8ページ 悪霊に取りつかれた少年がいやされる ***
「こうした事がいつから起きているのですか」と,イエスはお尋ねになります。
「子供のころからずっとです。その霊は何度となく彼を火の中にも水の中にも投げ込んだものです」と父親は言い,「何かもしおできになるなら,私どもを哀れんでお助けください」と嘆願します。
恐らく何年もの間,父親は助けを求めていたのでしょう。そして今度は,イエスの弟子たちでもだめだったので,非常に落胆しています。イエスはその人の絶望的な哀願を聞き,励ますような仕方で,「その,『もしできるなら』という言い方です! 信仰があるなら,その人にはすべてのことができるのです」と言われます。
その父親はすかさず,「私には信仰があります!」と叫びますが,「信仰の必要なところで私を助けてください!」と懇願します。
イエスは群衆が一緒になって走り寄って来るのに気づき,その悪霊を叱りつけて,「口のきけない耳しいの霊よ,わたしはお前に命じる。この子から出て,もう入ってはならない」と言われます。悪霊は離れる時に再びその少年に叫び声を上げさせ,何度もけいれんを起こさせます。その後,少年が地面に横たわって動かなくなったため,「彼は死んだ!」と皆が言いはじめます。しかし,イエスがその手を取ると,その子は起き上がります。
それ以前に弟子たちは,送り出されて宣べ伝える業を行なった時に悪霊を追い出したことがありました。それで弟子たちは,ある家に入った時にそっとイエスに,「なぜわたしたちはそれを追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます。
イエスは,弟子たちの信仰の不足が原因だったことを示唆して,「この種のものは祈りによらなければどうしても出ません」とお答えになります。今回の場合の特別強力な悪霊を追い出すには,よい備えが必要だったと思われます。強い信仰に加えて,神の助けを求めて祈ることが必要でした。
弟子たちは、単に、「なぜ、出来なかったのか」と尋ねているのに、「以前は出来たのに、今回はなぜ出来なかったのか」という趣旨で質問していることにした。
「出来なかった」原因は「信仰の欠如」(NWTマルコ9:24脚注)とあるにもかかわらず、「信仰の不足」としている。マルコにマタイの「信仰の小さい」を読み込み、マルコとの矛盾を解消させている。
マルコには「祈り以外」の解決方法はない、と指摘しているにもかかわらず、やはりマタイを読み込み、「強い信仰」と「祈り」の両方が必要だ、としている。
マタイがマルコを写しているにもかかわらず、マタイを中心に据えた解釈となっている。