●告別説教(使徒20:18-35)から見えるパウロの人格(1)
パウロは、初期キリスト信者の中でも極めて教養があり、転向してからは熱心に宣教し、多くの弟子たちからも愛された、クリスチャンが見習うべき模範的な人とみなす人がほとんどであろう。WTに限らず、パウロの人格特性について批判的な評価をしているキリスト教文書をほとんど見たことがない。
告別説教から見えてくるパウロの一面を紹介したい。告別説教はパウロの第三回宣教旅行、実際にはエルサレムの使徒集団教会に押し付けられた献金をマケドニアの諸会衆から回収して届けに行く旅行であるが、ミレトスからエフェソスの信者たちを呼び寄せて、最後の別れをする時のパウロの説教である。(宣教旅行が主たる目的はなく献金護送旅行であることに関する詳しい論議は別の機会に。ただWTもこの旅行は献金護送であることは認めている。「徹」P169囲み記事を参照)
感動的な別れの場面で、パウロの宣教と仲間に対してい抱いた熱い思いが感じられる場面である。
使徒20:24
24しかし私は、私の走りと、主イエスから受けたところの、神の恵みの祝福を証言するというこの務めとを終える時に、私のこの生涯が私自身にとっては何か言うに価するほどのものだったとは思っていない。(田川訳)
24 でもやはり,自分の行程と,主イエスから受けた奉仕の務め,すなわち神の過分のご親切に関する良いたよりについて徹底的に証しすることとを全うできさえすれば,わたしは自分の魂を少しも惜しいとは思いません。(NWT)
20:24 私の走りと・・・勤めとを終える時に
この「時に」(hos)を、「目的」の意味に取り、「私の走りと・・・勤めとを終えるために」と解したり、「結果」の意味に取り、「だから私の走りと勤めとをこのように終えることになります」と解する意見もある。しかし、「時に」で意味が通じるのであるから、無理に仮定文であるかのように解釈する必要はあるまい。
だたし接続詞のhosに「さえしたら」という意味はない。口語訳「果たし得さえすれば」、岩波訳「ならば」、新共同訳「できさえすれば」等は、RSVのif onlyを訳したもの。原文には、どこにも仮定の意味は表現されていない。
これは聖パウロ信仰による誇張表現。聖パウロは福音のためなら命を惜しまない偉大な宣教者の手本である、とのドグマを読み込んだもの。統治体だから神格化されたイエスと同じような特質を持っているはずだと信じ込むようなもの。
パウロは謙遜して言って見せただけの話である。決して本心ではない。謙遜するのであれば普通なら、自分個人にとっては重要なことなのですが、世の中の人々の眼から見れば大したことではありません、謙遜するものである。
しかし、パウロの場合は、逆である。あなた方にとっては多いに価値のあることにしてあげたのだが、自分にとっては大したことではありません、と言っている。早い話が、見せかけの謙遜さを示しているだけで、自分の功績を自慢しているのである。
NWT「自分の行程と・・・奉仕の務め・・・を全うできさえすれば」。KIはhos=asとしているが、英訳=if onlyと訳している。as→as if→as if only→if onlyとなったのだろう。パウロは人格者である、という思い込みで、いつの間にか原文のasの意味をが消され、仮定法となり、さらに仮定法の限定用法に、話がすり替えられていったのだろう。大会の経験のように。
パウロ信奉者には申し訳ないのだが、実際には、謙遜な特質を示し、教養があるにもかかわらず、偉ぶることもなく、信者の益のために献身的に仕えた全くの自己犠牲の人ではなさそうである。
もちろんパウロは、キリスト教の教義の骨格を作り上げた精神的支柱となった人物である。伝道活動で各地に教会を設立した大きな功績を残したクリスチャンであることは間違いない。
しかし、イエスや十二弟子たちの場合と同じように、模範的なパウロ像は、聖書の描くパウロ像ではなく、弟子たちによって聖人化、神格化された姿のようである。聖人化されている統治体と同じようにである。