使徒15章には、パウロとバルナバのいるアンティオキア教会に、ユダヤから来た割礼主義者のキリスト者との間で、割礼をめぐる大論争があり、エルサレムで会議が開かれることとなる。WTが統治体の存在の根拠として取り上げる個所であるが、統治体の存在の有無に関してはここでは取り扱わない。

 

   当時のエルサレム教会の指導者は、ヤコブであったことは、エルサレム会議における最終決定をしていることから明らかである。使徒15:1の「ユダヤ」とは、実質的にはエルサレム教会を指し、アンティオキアで、割礼問題の原因を作った「割礼を受けなければ救われない」と解釈を押しつけていたのは、ヤコブを中心とするユダヤ主義的キリスト信者であった。

   最終的には、割礼は必要ではないという決定がなされ、手紙とエルサレムからの二人の使者が遣わされることになるのだが、この指示は、使徒15:23によると、「使徒や年長者の兄弟たちから、アンティオキア、またシリア、キリキアにいる諸国民からの兄弟たちへ」(NWT)となっている。

 

   あくまでも「諸国民からの兄弟たち」だけを対象とした指示であることに注目して欲しい。割礼を支持しているユダヤ人は除外されているのである。ユダヤ人は生後8日目に割礼を受けているから、改めて割礼を受ける必要がないのは当然であるが、キリスト信者となった以後であっても、ユダヤ人のキリスト信者は子供に割礼を施すことを禁じられてはいなかったのである。むしろ割礼を施していたのであり、異邦人には割礼を強制しなかっただけである。

 

   パウロは、割礼を受けることに関して強く否定的であり、再び割礼を受けるのであれば、旧約の律法全体を守る義務が再び生じる、と述べている。(ガラ5:3)

   しかし、使徒16:3ではパウロはテモテに割礼を施している。その理由を「その地域のユダヤ人のために」と説明している。この意味をWTは、宣べ伝える相手となるユダヤ人に対して偏見を抱かせないよう、相手の良心に配慮を払い、不必要に他の人の感情を害さないためだった、と説明している。(08/5/15/p32他)

 

   果たしてそうであろうか。

 

   確かに割礼を受けているなら、ユダヤ人に対しては受けが良いかもしれない。では異邦人に対してはどうであろうか。異邦人には割礼が必要がないと指示が出てから、改めて異邦人が割礼を受けているのであれば、宣べ伝える相手となる異邦人はどのように感じるであろうか。やはり救いのためには割礼が必要であると間違った結論を出す可能性が生じるのではないだろうか。

   これでは、ユダヤ人の良心は大切にされるべきであり、躓かせてはならないが、異邦人の良心は踏みにじってもよいし、躓いたとしても自己責任だ、と言っているようなものである。

 

   パウロはガラテア書簡でエルサレム会議に関連して面白い記述がある。

ガラテア2:5

「我々は一時といえども彼らに屈従して譲歩することをしなかった。福音の真理があなた方のもとにとどまり続けるためである」。(田川訳)

「そのような人たちに対して私たちは屈服して譲歩したりはしませんでした。そうです、一時といえどもです。それは、良いたよりの真理が引き続きあなた方のところにとどまるようにするためでした」。(NWT)

 

   この句は、写本によって「否定辞」(oude=not-yet)が入っていないものがある。D写本と古ラテン語b写本のみであるが、二世紀の教父のエイレナイオス、テルトゥリアヌスも否定辞のない読みを支持している。テルトゥリアヌスが「マルキオン駁論」(V,3,3)でマルキオンは何でもパウロをユダヤ教から引き離すために原文を改ざんする、とこの句に否定辞を付けて読んでいることを批判している。さらに「我々はこの意味そのものと、その理由とに目を向けよう。そうすれば彼が聖書を改ざんしたことが明らかになろう」と言い、その「理由」として、パウロは「ユダヤ人に対してはユダヤ人になる」(コリ①)9:20)という方針なのだから、相手がユダヤ人である時には妥協して割礼を受け入れたのだ。現にパウロはテモテに割礼を受けさせているではないか、としている。

 

   二世紀半ばに、パウロ書簡を最初に結集したのがマルキオンであり、新約正典化運動の口火を切った人物であるのはほぼ確実であるから、彼が挿入した否定辞が一般に広まってしまった、という可能性は十分にある。

 

   現存の他の大文字写本は4,5世紀のものであるが、D写本以外一致して、否定辞を入れている。

 

   果たして、パウロはユダヤ主義者に対して、一時といえども屈従などしなかったのだろうか。それともユダヤ人の信者を信者を獲得するために、ユダヤ人の良心を慮り、ユダヤ主義に妥協したのだろうか。

 

   いずれにしても、WTの説明は「ユダヤ人のために、譲歩した」のであり、ガラテア2:5の「屈従して譲歩したりはしませんでした。そうです、一時といえどもです」と自ら訳した聖書の言葉には、調和しない註解である。

 

 

 

 

 

誤字修正