●「王として支配する」とはどんな意味?
神がキリストを通して信者に与える賜物の中には、「王として支配する」ことが含まれている。この聖書の希望に関して、疑義を唱えるJWはほとんどいないであろう。イエスが天に戻った理由の一つは、その希望を確実にするためである。そのことは、ヨハネ14:1‐3が裏付けている。イエスが信者のために「場所を準備したら、再び来て、あなた方をわたしのところに迎える」と地上で約束した。
また、パウロも繰り返し、イエスを通し、王として支配する」(コリ①4:8、ローマ5:16,21ほか)という希望について述べている。
啓示でも、「地に対して王として支配する」(5:10,20:4,6、22:5ほか)とある。
テモテ①6:15やテモテ②2:12でもイエスと共に「王として支配する」とある。
マタイやほかの個所でも「王として支配する」と訳されている箇所はあるが、NWTは、文字通り「王」という権威を持つ立場で、領土と臣民を「支配する」という意味に解釈している。
この「王として支配する」と訳されているギリシャ語は、basileuoで、この動詞は「……に対して王である」という自動詞である。「王として支配する」と訳されるが、「だれかを(王として)支配する」という意味ではない。つまり、この動詞そのものに「支配する」という意味があるわけではない。basileus(王)という名詞を動詞化したもので、字義的には「王である」という意味である。basileúō (from 935 /basileús, "king") – to reign as king, i.e. exercise dominion (rule).
政治的な意味でこの語を用いている場合は、文字通り「王として支配する」という意味であるが、宗教的な意味でも「王として支配する」(basileuo)という語は「王である状態にある」という意味で用いられる。宗教的な意味でも、信仰により「王」という立場を与えられて、人々を「支配する」という意味なのだろうか。
パウロが、宗教的な意味で用いている箇所を取りあげて、どんな意味なのか探ってみたい。
ローマ5:17-21
「17つまり、もしも一人の人の罪科によって、その一人の人を通して死が支配するにいたったのであるとすれば、ならばますます、豊かな恵みと義の賜物を受ける者たちは、一人の人イエス・キリストを通して生命において王となるであろう。18従って、罪を犯した一人の人を通してすべての人へ、断罪へといたるのと同様に、一人の義認を通してすべての人へ、生命の義認へといたるのである。19つまり、一人の人の不従順によって多くの人が義人と定められることになる。20律法が入り込んで来たのは、罪過が増すためである。そして罪が増したところでは、恵みがそれを越えて更に増すことになろう。21そこで、罪が死において支配したように、恵みもまた義を通して、我らの主イエス・キリストによって、永遠の生命へといたるように支配することになるのである」。(田川訳)
「17というのは、一人[の人]の罪科により、その人を通して死が王として支配したのであれば、まして、過分のご親切と無償の賜物である義とを満ちあふれるほどに受ける者たちは、一人[の方」イエス・キリストを通し、命にあって王として支配するからです。18こうして、一つの罪過を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた、命のために彼らを義と宣することなのです。19一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように、一人[の方]の従順を通して多くの者が義とされるのです。20さて、律法は、罪過が満ちあふれるために入り込んできました。しかし、罪があふれたところでは、過分のご親切がなおいっそう満ちあふれました。21何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように、過分のご親切もまた、私たちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ、義によって王として支配するためでした]。(NWT)
「アダム」と「イエス」が対比されており、「罪」と「命」が対比されており、共に「王として支配する」(basileuo)の状態にある、と述べている。
田川訳では、「死」が「支配する状態」では、「断罪へと至る」が「命において」「支配する状態」では、「生命の義認」の状態へといたる、と述べている。つまり、宗教的な意味で「命において王である」状態とは、「義認」の状態であることを指していることが理解できる。
NWTは、「命にあって王として支配する」状態とは、「命のために彼らを義と宣する」状態であるとしている。つまりこの個所の「王として支配する」とは、文字通り、天の王国で地上を「王として支配する」という意味ではなく、神から是認された状態を得る、という意味で、パウロがbasileuoという語を使っていることが理解できる。
実際、「王となる」(basileuo)という動詞を宗教的な意味で用いる場合には、宗教者の到達しうる最高の状態を「あらゆるものの上に立つ」という意味で「王となる」と呼ぶそうである。
トマス福音書に「求める者には、見出すまで求めることをやめさせてはならない。そして、彼が見いだす時、動揺するであろう。そして彼が動揺する時、驚くであろう、そして彼は万物を支配(basileuo)するであろう。」とある。
宗教的境地の第一段階が「探す」。そして見つかると「動揺し」「驚く」。つまり、心が激しく動く、感動する、というのが第二段階。そしてその上の段階が「王となる」状態であるとしている。
そしてアレキサンドリアのクレメンスが引用しているヘブライ人福音書には、宗教的な意味でさらに上の境地に関して言及されており、「求める者は、見出すまでは休むことがない。見出したら、驚くであろう。驚いたら、王になるであろう。王となったら、休むであろう」。とある。
パウロの文書は、これらの文書より100年ほど前のものである。パウロとしては、当時達し得る最高の宗教的境地を「王となる」と表現していたのであろう。
21節も同様である。
この節の原文は、「死において」(en to thanato=in the death)「義を通して」(dia dikaiosunes=through rightousness)「イエス・キリストによって」(dia iesou christou=through Jesus Christ)という三つの前置詞句が、「支配する」(basileuo)という定動詞を修飾している。
「死において」の前置詞はen=in。「死という状態において」支配するという趣旨。死後に支配する権威を得る、という意味ではない。後の二つは、どちらもdia。「通して」とも「よって」(手段)とも訳せる。
「王となる」を「宗教的に最高の境地に達する」という意味に解するなら、神の王国で支配することとは、無関係であることが理解できるのではなかろうか。教理を前提に読まなければ、文字通り、聖書が、天的クラスが「王として支配する」と書いているとは読めない。もっともそう読んでも、唐突過ぎて、文脈からして矛盾することになるが……。
NWTは、三つの前置詞句に、原文にはない言葉を付加し、油注がれた者たちは、天の王国で支配するというWT教理を読み込むため、前置詞句のかかる言葉と順番を変えて、意味を整えている。はじめから、自説のドグマを読み込むために、原文を意図的に歪めているのであろう。
第一コリントス4:8も同様である。
啓示の個所も、文字通り地上を「王として支配する」という意味に解さなくても、意味は通じるようである。他の個所も同様である。
ちなみに、ヨハネ14:3の「イエスが、再び来て、信者を迎える」という句は、原著者のものではなく、教会的編集者のものであるようである。実際、自分をユダヤ信仰の「キリスト」や「メシア」と呼ぶな、と弟子たちを叱った人が、メシア信仰を前提にした約束を語るはずはない。メシア信仰を待望していたのは、イエスではなく弟子たちであるから、ユダヤ主義的な弟子たちによる伝承であろう。
テモテ書簡は、パウロの真筆ではないし、マルキオン聖書にも収められていない。二世紀半ば以降の書簡であるのはあきらかである。当時のパウロ派信仰についての研究や分析には役立つが、パウロ自身の信仰については書かれていることをうのみにはできない。
改めて、ざっと調べてみると、NWTが、「王として支配する」(basileuo)と訳している語、また「王国」「支配」などと訳される抽象名詞(basileia)に関しても、文字通りの王国を意味しているのではなく、宗教的な意味で述べている箇所がかなり多いと思われる。
イエスは、本当に地上に神の王国が到来することを神の約束として信者に語ったのか、それとも宗教的に最高の境地に立ち、生きて行くことを人々に勧めたのか、もう一度再吟味する必要があるようである。
いずれにしても、パウロは天の王国から地上の人々を支配するような権威を神から授かるようになる、とは考えていなかったようである。むしろ、「死」という状態から、「永遠の命」へといたる道についての関心が主だったようである。
どうやら、WTの説く「神の王国の希望」とやらは、聖書に書かれていることを越えた希望のようである。
それでも確かめもせずに信じたい人は、どうぞご自由に。