• パウロは「巡回監督」の祖か?その1(ローマ15:14‐15、18‐19)

 

多くのJWは、パウロと現代の「巡回」奉仕をしている監督たちを重ね合わせている。WTでも数多くの個所で、「巡回監督」「旅行する監督」や「宣教者」を讃美する目的で「パウロのように」という表現を多用する。それで、1世紀にパウロが、現代の巡回監督のように、各会衆を霊的に励ます、相互に励まし合う目的で、訪問していたと信じているJWが多い。

実際WTでも、次のように書かれている。

 

「西暦1世紀の各地のクリスチャン会衆は,パウロやバルナバといった監督たちの訪問を受けました。それら忠実な男子は,会衆を『築き上げる』という目標を持っていました。(コリント第二 10:8)今日,系統立った取り決めに従ってそれを行なっている男子が幾千人もいます。エホバの証人の統治体はそれらの人を巡回監督また地域監督として任命してきました。」塔96 11/15 10ページ 2節

 

「ローマ 15章19節で,使徒パウロは,「イルリコに至るまで」巡回しながら宣べ伝える業を行なったことについて述べています。その原語のギリシャ語を,パウロが実際にイルリコで宣べ伝える業を行なったと解すべきか,それとも単にそこまで宣べ伝える業を行なったと解すべきか断定することはできません。」洞‐1 264ページ

 

その聖書的根拠とされている一つが、ローマ15:19である。「断定することができない原語のギリシャ語」については後で説明するが、WTは「会衆を築き上げる」ためにとしているが、パウロはどんな動機を抱いて、「巡回しながら宣べ伝える業を行なった」のだろうか。

 

ローマ15:18-19を比較してみる。

 

18すなわち私は、異邦人が聞き従うようになるためにキリストが私を通じて、言葉とでもって、19奇跡の力によって、神の霊の力によって、18働き給うた事柄以外については、敢えて何も語るつもりはない。19このようにして私はエルサレムから、ずっとめぐってイリュリコンにいたるまで、キリストの福音を満たしてきたのである。(田川訳)

 

18諸国民を従順にならせるためにキリストが私を通して、すなわち、[わたし]私の言葉と行ないにより、異兆との力、また聖霊の力をもって行なわれた事柄についてでなければ、わたしはあえて一言も語らないからです。19そのためわたしは、エルサレムから、そして巡回しながらイルリコに至るまで、キリストについての良いたよりを徹底的に宣ベ伝えました。(NWT

 

この18,19節は、14節から始まる、ローマ教会のキリスト信者たちに対する言い訳の一部である。これから訪問する予定だというのに、まだ訪問したこともないローマの信者たちに対して、言い過ぎたと気にして言い訳を始めたのである。

 

そのことが理解できるように、その一部を並べておく。

 

14わが兄弟たちよ。あなた方もまた善きことに満ち、あらゆる知識に満たされ、また互いに考えを正す能力があると、この私もまたあなた方について確信している。15ただあなた方に対して、ところどころ、いささかきついことを書いたのは、あなた方の記憶を新たにするためであって、それは神から私に与えられた恵みによって書いているのである。(田川訳)

 

14さて、私の兄弟たち、あなた方自身はあらゆる知識に満たされてきましたが、また善良さにも満ちていて、互いに訓戒し合うこともできるのであり、私自身あなた方についてそのことを確信しています。15しかしわたしは、あなた方にもう一度思い出させるようなかたちで、いくつかの点についていよいよ率直に書いています。(NWT)

 

 

14節で「この私もまたあなた方について確信している」とパウロは言っているが、ローマの信者たちとパウロとはまだ面識がない。ローマ書はパウロがエルサレムに向かう献金護送の途中でローマに寄る時に、先行して送った手紙である。いわばパウロのローマ教会に対する自己紹介の手紙であり、自己推薦文である。それにもかかわらず、未知の相手に足していささか失礼な説教を書きすぎた、と思ったのだろう。

それで、単に「私確信している」というのではなく、「この私また」(kai autos ego) と余計な強調をしてしまったのだろう。

 

ローマにも立派な信者が大勢いる、と他のクリスチャンたちは言っていますが、そのことを疑っているわけではありませんよ、「この私もまた」、そうであることを確信していますよ、という気持ちが表現されているのである。

NWTは、代名詞「わたし」にかかるkaiを無視して、文全体にかかる接続詞として扱い、「また……」と訳している。パウロ聖者信仰に基づき、彼の不遜さを消すために、文法を曲げて解釈したのだろう。

 

また、NWTは「いよいよ率直に書いています」と訳しているが、田川訳「いささかきついことを書いた」というのも、言い訳の続きである。ちょっと言い過ぎた、と気にしていたのである。まだ会ったこともない相手にどんな権威を持って「いよいよ率直に書ける」のだろうか。

しかも、「いささかきついことを書いた」のは、「神からパウロに与えられた恵み」によるのだから正当だ、というのである。ローマの信者たちは、パウロがどのような経緯で「使徒」と称するようになったかを直接知っていたわけではない。それにもかかわらず、私は神によって特別な「恵み」を与えられているのだから、皆さんにも上から命令する権限が与えられているのだ、とおっしゃっているのです。

パウロは、エルサレム教会にあった「統治体」から任命され、ローマに行ったわけではない。当時存在したキリスト教の中枢機関により、「使徒」という任命を受けたのではない。パウロ自身が「神から自分に与えられた恵み」であると、自分で主張しているに過ぎない。パウロの立場に、組織的な関与が存在していた、とは述べていない。あくまでも「神から」だけである。

 

また、「いささかきついことを書いた」という過去形の文をNWT「いよいよ率直に書いています」と現在形にしている。

原文の「いささかきついこと」とは、「きついこと」(tolmeros)の比較級。英語ではboldが当てられる。KI=more darlinglyと親切心から出ているように表現しているが、英訳はthe more outspokenlyとしている。いずれにしても、原意に「謙虚」な気持ちで、というニュアンスはない。むしろ、「大胆」「放縦」「自信」というイメージの方が強い。

 

また、原文の「書く」動詞(egrapsa)はアオリスト形であり単純過去。現在形にしたのは、パウロの「実直さ」を演出したかったのだろうか。あるいは単なる誤訳か、意図的な改竄か。

真相は分からないが、KIは過去形(I-wrote)にしているが、英訳が現在進行形(I am writing)にしている。いずれにしても、原文は現在形ではない。

 

この段落の背景はともかく、確認しておきたいのは、JWが信じているように、「巡回訪問」が一世紀のキリスト教の型となっているのかどうかである。

 

各地に点在する会衆を、「霊的に励ます」目的で、巡回監督が訪問するとすれば、キリスト教に関する正当とされる信仰が存在し、異なる意見を調整するための正当な権威が存在していなければならない。

 

各会衆が、自治的に運営され、キリスト教を奉じていたのであれば、異なる見解を持つキリスト教の人間が「巡回」して来たとしても、単に自分たちのキリスト教とは異なるキリスト教を奉じている人間の「訪問」に過ぎない。それは別の組織のキリスト教の人間による「布教活動」であり、唯一の神の組織から派遣されて、「巡回」しているのではないことになるからである。