●どのような意味でパウロは、「最も小さな者よりさらに小さい者」なのだろうか。(エフェソス3:8より)
WTでは、パウロはクリスチャンとなり人格を変化させ、使徒パウロとして、自分が「すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さい者である」ことを謙遜に認めた人物である、としエフェソス3:8を引用する。福音宣明者として成功したが、それを自分の功績とはせず、一切の誉れを神に帰した、模範的な人物である根拠となる聖句としている。(WT07/11/1,p4ほか参照)
ほとんどのJWやキリスト教の信者にとってパウロは、12使徒の一人ではないものの偉大な使徒であり、クリスチャンとしての特質を備えた人物とみなされている。
この聖句は、本当にパウロの謙遜さを示しているのだろうか。もし、エフェソス書がパウロの著作であるとすれば、その意味になるが、エフェソス書がパウロの著作でないことの証拠はエフェソス書そのものが証ししていた。
エフェソス書がパウロの著作でないのであれば、著者はどのような意味で、パウロが「すべての聖なる者たちの中で最も小さい者よりさらに小さい者である」と言っていたのであろうか。
エフェソス書の著者は、ある個所では、「我々」と「あなた方」とを明確に区別して使っており、「我々」ユダヤ人出身のキリスト信者と「あなた方」異邦人出身のキリスト信者とを同列の立場にあるキリスト信者とは考えていない。
その基礎理解の上に、田川訳とNWTを比較すると、NWTがWT教理を読み込ませようとしているのが理解できる。
3:1‐12までを比較してみる。文法的には、1‐7節までの一文と、8‐12節までの一文とで構成されている。
1このことの故に私パウロが、あなた方異邦人のためにキリスト・イエスの囚われ人となったこのパウロが、――2あなた方へと向かうようにと私に与えられた神の恵みの摂理について、あなた方が本当に聞いたのであれば!3前にも少し記したように、啓示によって秘義が私に知らされたのだ。4それをあなた方が読めば、キリストの秘義に関する私の理解がどういうものか、おわかりになるはずである。5この秘義は、前の世代にあっては、人の子らには知られていなかったのだが、今やキリストの聖なる使徒たち、また霊における預言者たちに対して顕わされたのである。6そしてそれは異邦人がキリスト・イエスにあって、福音の故に、共同相続者、共同の身体、約束の共同受領者となるためであった。7私は、神の力の働きに応じて私に与えられた神の恵みの賜物に応じて、その福音の仕え手となったのである。
8すべての聖者たちの中で極小の者である私に、異邦人に対してキリストの測り難いほど大きい富を福音として伝えるという、この恵み(の責務)が与えられたのだ。9すなわち、一切を創造し給うた神の中に世のはじめ以来ずっと隠されてきた秘義の摂理がどういうものであるかを、すべての者に対して明らかにする、という(責務である)。10その結果、今や、天上の支配力、権力に対して、神の非常に多彩な知恵が教会によって知らしめられたのである。11それは、我らの主キリスト・イエスにおいて神が実現し給うた永遠の計画に応じるものである。12このキリストにおいて我々は、彼の信によって、公明さと、確信のある到達を得るのである。(田川訳)
1 このゆえに,あなた方諸国民のためにキリスト・イエスの囚人となっている私パウロ ― 2 あなた方のためにわたしにゆだねられた,神の過分のご親切に関する家令職についてあなた方がほんとうに聞いているのであれば,3 すなわち,さきに簡単に書いたとおり,神聖な奥義が啓示によってわたしに知らされたことについてですが。4 その点を考えれば,あなた方はこれを読む際,キリストの神聖な奥義についてわたしの把握しているところを悟れるはずです。5 ほかの世代において,この[奥義]は,今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているほどには,人の子らに知らされていませんでした。6 すなわちそれは,諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて,共同の相続人,同じ体の成員,わたしたちと共に約束にあずかる者となる,ということです。7 わたしは,[神]の力の働きに応じて自分に与えられた,無償の賜物である神の過分のご親切にしたがい,このことの奉仕者となったのです。
8 すべての聖なる者たちの中で最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し,9 定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がどのように管理されるかを人々に示すことになりました。10 [これは,]天の場所にあるもろもろの政府と権威に対して,きわめて多様な神の知恵が,今や会衆を通して知らされるためであって,11 それは,キリスト,すなわちわたしたちの主イエスに関連して[神]がお立てになったとこしえの目的にかなうところでした。12 その[イエス]により,彼に対する信仰によって,わたしたちはこうしてはばかりのないことばで語ることができ,また確信を抱いて近づくことができます。(NWT)
主な訳の違いと句のかかり方の違いを赤字と黄マーカーで、問題となる表現をアンダーラインで示した。
2節の田川訳「あなた方へと向かうようにと私に与えられた神の恵みの摂理について、あなた方が本当に聞いたのであれば!」とあるが、1節で「あなた方」=「異邦人」であるのだから、「パウロに与えられた神の恵みの摂理」とは、異邦人伝道を指していることが理解できる。そのパウロが「恵み」として「与えられた」と考えている「異邦人伝道」について、「あなた方」異邦人が「本当に聞いたのであれば」、つまりその摂理=「異邦人伝道が、本当に「神の恵み」であることを認めているのであれば、というのが2節の意味になる。
NWTは「あなた方のためにわたしにゆだねられた、神の過分のご親切に関する家令職についてあなた方が本当に聞いているのであれば」となっている。「あなた方へと向かう」(eis humas)を「あなた方のために」と訳しているが、eisは基本的に方向を示す前置詞である。「ために」に訳すことにより、パウロの「諸国民」伝道は、「神の過分のご親切に関する」音信であり、すでに「家令職」として神から任命を受けた立場にあるパウロが、神から「委ねられた」ので、あなた方「諸国民のために」、伝道をしているのだ、という趣旨に読むことになる。
さらに「神の恵みの摂理」(ten oikonomian tes chariots tou theo)という「摂理」の対格に「恵み」の属格と「神」の属格を定冠詞付きで形容した表現を、「神の過分のご親切に関する家令職」と訳しているが、「関する」という語は原文にはない。対格表現を「関する」と訳したおかげで、「神の過分のご親切」とは「家令職」の「職務」を説明する内容であるかのように読めることになる。実際には「向かうようにと与えられた摂理」であるから、対格になっているだけである。与格の意味ではない。
また「聞いた」という動詞の態はアオリストであり、基本的には過去の行為を指す。NWTはそれを「聞いている」と現在形で訳している。パウロの「家令職」を認めないのであれば、たとえ過去に聞いたことがあるとしても、本当に聞いたことにはならない。現代の「家令職」である「統治体」を認めないものは「神の過分のご親切に関する」音信を聞いていないことになる、と読ませたいのであろう。
エフェソス書の著者は、パウロの「異邦人」伝道のことを、3節で、パウロに知らされた「啓示による秘義」と呼んでいる。その「異邦人」伝道のことを、4節で「キリストの秘義」と呼び、5節では、「前の世代にあっては」人間には理解されていなかったが、「今や」つまりエフェソス書が書かれた世代においては、キリストの「使徒たち」やキリスト教の「預言者」によって理解されるようになったのだ、と言っている。
NWTの訳では、あなた方は「これ」(=聖書)を読む際、「神の過分のご親切に関する家令職」についての「神聖な奥義」を「悟れるはず」であり、「この奥義」は「ほかの世代」においては、人間には知らさせていなかったが、「今」つまり使徒たちの世代に、「霊によって啓示されて」いたのと同じように、「今」の終わりの時に統治体においても、「聖なる使徒」や旧約の「預言者」と同じく「霊によって啓示されている」のだ、という趣旨になる。
しかし、原文に「これを」という目的語は付いていない。単に「読めば」とあるだけで、何を読むかは示されていない。WT教理を読み込ませようとするために、「これを」と入れたのであるが、[ ]も付けずに、原文にあるかのように本文に入れるのは、字義訳と言えるのであろうか、甚だ疑問である。
つまり、神はパウロに「家令職」という天的クラスに与えられた職務を「ゆだねた」という事実を原文から読みとることは難しいように思われる。単にパウロが使命感を持って異邦人伝道に赴いたということをエフェソス書の著者は、あなた方「異邦人」に対して「神の恵み」の計画の一端であると述べているに過ぎないようである。それを「あなた方」異邦人は、「わたしたち」ユダヤ人のように、はじめから「神の摂理」に定められていたのではなく、「恵み」によって、つけ加えられているだけだ、とエフェソス書の著者は言いたいようである。