●子供は本当に「主と結ばれた親」に従順でなければなりませんか?(エフェソス61より)

 

二世である人や子供を持つ親は、繰り返しエフェソス6:1-4を聞かされたことであろう。子供を持たない長老から、「子供の訓練」と称して、この聖句を用いた一方的な「励まし」と「牧羊」に、忍従した子供や母親もいることと思う。

 

特にJWにおいては、神権家族でない場合、「霊的な頭の権」は信者である親に委ねられていると教えている。母親が信者である場合、子供たちはエフェソス6:1を引き合いに出され、「主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい」と神の言葉にあるのだから、「主と結ばれていない」つまりJWではない父親よりも、「主と結ばれている」つまりJWである母親に従順であるべきだ、教えられている。

 

果たして、この聖句は本当に、子供に対する「信者の霊的親権」を優先させるように教えているものなのだろうか?

 

6:1の田川訳とNWTを比較してみるが、まず原文のギリシャ語を書き出してみる。原文のギリシャ語は、KIのテキストをそのままローマ字読みしたものである。

 

原文:「ta tekna」「hupakauete」「tois goneusin humon」「en kurio, touto」(gar)「estin dikaion

「子供たちよ」「従いなさい」「あなた方の親たちに」「主にあって」「これは」(接続小辞だから)「正しいことである」という並びである。

 

田川訳「子供たちよ。自分の両親に従え。これが正しいことである」。

NWT「子供たちよ、主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです」。

 

まず、田川訳には、NWTが「主と結ばれた」と訳している句が省かれていることが理解できる。

 

実は、「主にあって」(en kurio(_))という句を省いている写本がある。BDFGであるが、西方系写本(DFG)だけでなく、アレクサンドリア系の最重要写本であるB(バチカン写本)までも省いている。またテルトゥリアヌスが引用したマルキオンも「主にあって」を省いている。

 

他の大文字重要写本(P46、シナイ写本ほか)は、入れている。ネストレは「主にあって」を入れた読みを採用しているのだから、KIが、「主にあって」という句を入れた読みを採用しているのも理解できる。

 

しかし、「主にあって」の二語が原文には付いていなかった可能性は低くない。むしろ、原文に「主にあって」とあったものを後世の写本家が削った可能性よりも、エフェソス書の著者の意図をより強調するために付加した可能性の方が、lectio difficiliorの原則からして高いように思われる。

 

はじめから原文に「主にあって」とあったのであれば、わざわざ後代の写本家が削るとは考えにくいからである。

 

ちなみに、他の主な日本語訳聖書は以下のとおりである。

口語訳「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである」。

新共同訳「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです」。

新改訳「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです」。

文語訳「子たる者よ、なんぢら主にありて両親(ふたおや)(したが)へ、これ正しき事なり」。

ここまでは、表現は異なるがすべて原文の「主にあって」(en kurio)という前置詞句を本文の読みととして訳している。

 

ところが、

岩波訳「子どもたちよ、[主にあって]あなた方の両親に聞き従いなさい。事実、これは正しいことである」。

塚本訳「子達よ、[主に在って]両親に従順なれ。これは当然のことであるから」。

この二つの訳は、「主にあって」を、[ ]付きで採用している。これは[主にあって]という読みが原文にはない異読があることを示している。

 

  英訳でも私の知る限り、何らかの形で「主にあって」という前置詞句を入れて訳している。

 

もし、原文に「主にあって」という句が付いていなかったのであれば、子どもはJW信者の親の宗教的指示を優先すべきである、というWT論理は聖書の指示とは異なることになる。

 

母親が信者である場合でも男である父親に頭の権があるのであるから、両親が異なる宗教的意見の時には、父親の意見に従う方が聖書的である、ということになる。

 

エフェソス6:1の「主と結ばれた親」を根拠に、母親が子どもを組織に縛りつけておく正当性を失うことになるのである。

 

また、NWTは「主にあって」を「親」にかかる形容句と解しているが、これは文法的に間違いである可能性が高い。しかも、原文の「このこと」(touto=this)という指示代名詞を「子供たちが、主と結ばれた親に従うこと」の意味に読ませるように訳している。

 

ほかの訳を読んでも理解できると思うが、「主にあって」とは「従いなさい」という動詞にかかる副詞句と解する方が素直であろう。新共同訳は、その意を汲んで「主と結ばれた者」とは、「親」ではなく「子供たち」であると読めるように訳している。

 

この「主と結ばれた」という表現は、これまでも繰り返し述べて来たように「キリスト信者である」ことを前置詞を用いて(en kurio)あるいは(en christou)などと表現しているだけであり、キリストと特別な関係にある信者という意味ではない。

 

また、「親」にかかる形容詞であるなら、前置詞を用いて表現するのではなく、単なる属格を定冠詞とともに並べれば済むことでもある。

 

仮に「主にあって」という句が原文にあったとしても、それをわざわざ前置詞を用いて表現しているのは、「親」という名詞にかかるのではなく、動詞にかかる副詞句であり、自分の両親に従うというのは、子供であっても、キリスト信者として、これが正しいことである、という趣旨に読ませたかったからであるように思う。

 

いずれにしても、エフェソス61は、親が考えるキリスト信者として正しいことに従いなさい、と子供に命令しているのではなく、子供が考えるキリスト信者として正しいと思えることを子供が行なうことを勧めている聖句である。

 

確かに「主にあって」という前置詞句を軽く形容詞的に「クリスチャンの」という意味で使う例は存在する。しかし、あくまでも前置詞句は形容詞ではない。通常は動詞を補佐する役割のものである。

NWTがこの「主にあって」(en kurio=in Lord)を「親」にかかる形容句と解することは、「聖句の誤用」の範疇であろう。この聖句を根拠に子供を組織に縛りつけようとすることも、同様に「聖句の誤用」であろう。

 

英文でも和訳でも「主にあって」という前置詞句が「親」にかかる形容句となっている聖書をNWT以外に見たことがない。もちろん、私の知る範囲でのことであるが……。