●「限定的な愛」と「純粋な愛」の混同は「真の愛」を歪める。

   第一ヨハネの著者が言う「愛」とは、徹頭徹尾、信者だけを愛する「愛」、それも同じキリスト信者というのではなく、自分たちの「教条」をすべて受け入れている信者だけを愛するという「極めて限定的な愛」を信者に要求している。

  キリスト教の精神にも「イエスの愛」にも反する偏狭的な愛であるが、第一ヨハネに登場する「愛」を「限定的な愛」ではなく、「無条件の愛」の意味に読ませようとしているのではないかと思える箇所が存在する。

  もっともそれはNWTには限らないのではあるが……

 

その一つとして、3:14,15を検証してみたい。
「わたしたちは、自分たちが兄弟を愛しているので、死から命に移ったことを知っています。愛さない者は死のうちにとどまっています。すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです。そして、人殺しはだれも自分のうちに永遠の命をとどめていないことをあなた方は知っています」。(NWT)

 「我々は死から生へと移されたのだ、と知っている。[兄弟を]愛さない者は死に留まる。自分の兄弟を愛さない者はみな人殺しである。そしてあなた方が知っているように、人殺しは誰も自らのうちに留まる永遠の生命を持っていない」。(田川訳)

 主な違いは2点。

  NWTでは、単に「愛さない者は死のうちにとどまっています」としているが、田川訳では[ ]付きで[兄弟を]を補い、「[兄弟を]愛さない者は死に留まる」としている点。

  NWTでは、「自分の兄弟を憎む者」と訳しているのに対し、田川訳では「自分の兄弟を愛さない者」としている点。

 

  田川訳が、[兄弟を]という語を補ったのには理由がある。まず、「兄弟を」を補っている写本(重要写本ではCPΨ、ビザンチン系多数)が多数あること。しかし、大文字写本のCPΨだけでは弱く、ビザンチン系の多数が支持していても、やはり、原文は単に「愛さない者」であろう。
  しかしながら、著者は、一般的に「人々を愛する」と言っているのではなく、「兄弟を愛する」ことだけに価値を置いている。それゆえ、やはり「兄弟を」を補い読むものではあろうと考えているからである。

   一方、NWTでは、単に「愛さない者」と「兄弟を」のない読みを採用しているので、文脈や著者の意図を考慮せずに読むと、一般的な意味で「あらゆる人に愛を示さない者」と読むことになる。

 

  しかしながら、同じ節の前の文「愛している」に関しては「兄弟を」という語を入れているし、次節の「憎む者」に関しても「自分の兄弟を」とあるので、「愛さない者」に関しても、「自分の兄弟」に限定されると解するのが妥当。

  ところが、こちらの「愛さない者」を一般的な意味に解してしまうと、宗教的な意味で「自分の兄弟を」愛さない者は、一般的な意味でも「愛のない人」であるという意味を読みこんでしまう。

 

「愛さない者は死のうちにとどまっています」

「兄弟を愛さない者は死のうちにとどまっています」

 

  「兄弟を」が入ると印象が異なる。宗教的な兄弟関係に限定されるので、一般的な意味で「愛のない人」という刷り込みは生じにくくなる。

   JWが「真のクリスチャンを見分けるしるし」として取り上げるヨハネ13:34,35にも厳密に読めば「互いを愛する」「あなた方の間に愛があれば……」と宗教的な自分の兄弟を愛することに限定されている。世の人たちは、JWの宗教的兄弟関係の中に「愛」を見出し、「真のクリスチャン」として見分けるのだ、と註解されることが多い。

   しかし、「真のクリスチャン」は、「信者に限定された愛」ではなく、「愛の神」と同じ「アガペー愛」によって見分けられている、と刷り込まれているので、この「愛」も一般的な意味で「人々に愛を示す」という意味に解されることも多い。

   それゆえ、JWは「神の愛」によって見分けられる人々であるのだから、宗教的な「兄弟を」愛さない者は、クリスチャンとしても一般の人間としても「愛」のない人間であると刷り込まれてしまう危険性がある。そうすると、「兄弟を愛さない者」は神に愛される資格のない人間である。文字通り「愛さない者は死のうちにとどまって」おり、「永遠の命」に価しない、という刷り込みが強くなる。

   和訳の聖書は、文語訳から新共同訳まで、一貫して「兄弟を」を入れていない。英語の聖書では、KJV系は「兄弟を」を入れているが、NIV、RSV系は入れていない。

   「兄弟を」をいれない読みを、テキストとして採用したのは、「仲間の兄弟だけを愛する」ことと、兄弟に限定しないで「愛を示す」こととを容易にすり替えやすくするためなのだろうか。

  「愛さない者は死のうちにとどまっています。すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです」と続くと、兄弟に限定しないで「愛を示す人」が良いクリスチャンであるが、ましてや霊的な「兄弟を憎む者」は人殺しと同じだ、と読んでしまうのだろう。

   

  また、「愛さない」ことと「憎む」こととは、同じではない。「憎む」ことは「愛さない」ことではあるかもしれない。しかし、「愛さない」からといって、「憎んでいる」わけではないこともたくさん存在する。世界は「愛する」ことと「憎む」ことに二分されているわけではない。人には、「好き」でも「嫌い」でもない「事」や「物」や「人」は数多く存在する。All or Nothig思考は認知の歪みの一つである。

 

  ところが、物事の原因を常に「エホバ」か、「サタン」か、という思考に落とし込もうとする、JWが実に多い。自分にとって「良いこと」が生じると、「エホバだわぁ~」とうっとり、都合が悪いことが生じると「きっとサタンよ!」と吐き捨てる。しかも、そのようなバイナリー思考を「霊的だ」と高く評価する。  

  

  そんなJWには、「エホバ」も「サタン」も、「オラ、関係ないけど……」と苦笑いしていると思うよ、と良く言っていたものですが……(笑)

   そのような霊的バイナリー思考の結果、「自分の兄弟」特に「イエスの兄弟」と称する油注がれた統治体の「兄弟」を憎むことは「人殺し」同じほど重要な罪である。それゆえ、兄弟を愛していることを示すためには、経路の指示に従がうことが最も重要である、と無意識のうちに考えてしまうのもかもしれない。

   本来文字通りの「人殺し」は社会的犯罪であり、宗教的な「罪」とは全く別の問題である。ところが第一ヨハネの著者は、「自分の兄弟を憎む者は人殺しである」と「憎しみ」という個人的な感情さえも、社会的な意味でも犯罪であると断罪している。

   組織が信者に対して霊的「人殺し」をするのが、「排斥」である。社会的犯罪とは無関係に、無理矢理、宗教的な「罪」と烙印を押されてしまうことも多い。判断に明確な規定があるわけではなく、巡回監督と長老団の意向によるところが大きい。

 

  それゆえ自分が「排斥」という霊的な「死」を免れるためには、本当に愛すべき「おきて」であるかどうか、本当に真実に基づく「おきて」であるカかどうか、は二の次になってしまうのだろう。組織から霊的「人殺し」の決定を下されないことが最も重要である、と考えてしまうJWが多いのだろう。

   ある時には、「真の愛」とはあらゆる人に示されるべき「神の愛」の意味で説き、別の場合には「兄弟愛」こそが「真の愛」だと説く。そのどちらの「愛」に従ったとしても、自分たちは「愛」によって見分けられている「真のクリスチャン」である、とWTは二重の基準を正当化する。

   それゆえ、多くのJWは非JWに「愛」を示さなくても、「愛さない者」ではない。むしろ、非JWであってもJWであっても、統治体の見解と対立する時には、統治体を支持することによって、「自分の兄弟を愛する者」であり、「自分の兄弟を憎む者」ではないことを示そうとするのだろうか。「愛する者」であることと「憎む者」ではないこととは、同じではないのに……。

   「世界中で、最も愛にあふれた民」であり、「愛によって見分けられる組織」と自称し、豪語しながら、統治体を100%受け入れようとしない人間は、信者であろうとなかろうと「愛」を示す対象から外されてしまう。

 

  統治体以外を受け入れず、信仰の仲間さえ、排除しておきながら、それでも自分が「自分の兄弟を憎む者」となっているとは考えない。

 

  むしろ、愛とは真逆の排他的な行動を取りながら、自分たちが「愛」によって見分けられている「真のクリスチャン」であると信じてはばからない。しかもイエスと同じように歩んでいるイエスの信の追随者であると自認している。

 

  福音書によるイエスは、イエスの名を使って悪霊を追い出したり、癒しを行なっていた人に対して、異端として排除しろ、挨拶もするな、家にも迎え入れるな、同じグループのキリスト信者だけを愛すれば良いのだ、とは言わなかった。

   むしろ、イエスは「罪人たちと一緒に食事をする」(マルコ2:15‐17、マタイ9:9‐13)とパリサイ人から非難された。同じグループの兄弟だけを愛すれば神に愛されると考えていたのは、イエスのではなくイエスに敵していたグループの人たちであり、罪ある女を排除しようとしていたのはシモンをはじめとするイエスの直弟子と称する人々だった(ルカ7:35‐50)

   イエスは、「自分の名を使って悪霊たちを追い出している」グループの人々が一緒に従がって来なかった時、思想や理念が異なるだけで、彼らは兄弟ではないから、異端として排除しろ、とは言わなかった。(マルコ9:38-50)

 

  むしろイエスは、「あなた方がキリストのものであるという理由で、あなた方に一杯の水を与える者がだれであっても、その者は自分の報いを失わないでしょう」(マルコ9:41)と語り、「敵していない者は味方である」と考えておられた。

 

  イエスから、「信じるこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても、その者は、臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまった方がよい」と言われるのは、「愛」を叫びながら、自分たちのグループを支持しない人間を排除する人たちなのではなかろうか。

 

  世の恩恵を受け、世を利用しながら、心の中では「世の人」と蔑んでいる。非信者や信者に関しても、露骨なあるいは秘かな差別感情や優越感情を潜ませながら、自分は「愛のうちにとどまっている」、「愛」によって見分けられている「真のクリスチャン」であると信じることに何の疑問も矛盾も感じないJWが実に多い。

 

  「世を愛する」ことと「人を愛する」こととは別の問題である。それにもかかわらず、「世を愛さない」ことは「世の人を愛さない」ことでもあると拡大解釈する。

 

 それで、世の人の話は信じず、統治体の話を信じることが、「自分の兄弟を愛する」ことでもある。それは、クリスチャンとして「真の愛」を示すことでもある、と無意識のうちに都合よくすり替えてしまうのだろう。

   この句から「兄弟を」という語を入れない読みを採用することにより、文脈を無視して「愛さない者は死のうちにとどまっています」という句だけを単独で一人歩きさせることができるようになってしまった。その結果、「兄弟」に限定せず一般化させることができ、「愛」を示さない者は「自分のうちに永遠の命のとどめていない者」、「神に愛される資格はない者」、と読めることになる。

   文脈から著者の意図している正確な意味を考えるのではなく、単独で一人歩きさせ、著者の意図とは異なる註解を展開する。その結果、聖句のキーワード同士を連動させることにより、解釈の混同が生じる。その混同を護教的ドグマをもって説明しようとする結果、「愛を示さない」ことが「愛を示す」ことになるという矛盾を呑み込むことが可能になったように思える。

  「あれも愛、これも愛、みんな愛」。(古)(笑)

   愛という名で説明すれば、実体とは無関係に「愛」の行為になってしまうという現象がJWには起きる。

  動機が愛なのだから、許されるべきだと考え、加害者が被害者に許しを強要する。いやいや、許すか許さないかを決定するのは、被害者の側であり、加害者にその権利はない。被害者は加害者の実際の行為によって、被害を受けたのであり、加害者の動機が良くても悪くても、損害を与えたのである。加害者の動機と被害とは無関係である。

   ところが、「愛は罪を覆う」という「聖句」が加害者を救う。被害者は、「聖」なるもの名によって、理不尽を忍従させられる。

 

  結局のところ、聖書はすべて矛盾がなく、たったひとりの著者である「神」によって書かれた神聖な書物である、という正典「聖書」信仰が矛盾や理不尽を見えなくしているのであろう。

 

  聖書を人生訓を学ぶ優れた哲学書の一つとして見る事ができるなら、もっと豊かな人生を送れるJWが多くいるのでは無いだろうか。

 

  私は、「聖書」は嫌いだが、好きな言葉は多くある。