マルコ7:17-20 <穢れについての論争>6
マルコ7
17そして群衆を離れて家に入った時に、彼の弟子たちがこの譬えについて彼にたずねた。18そして彼らに言う、「あなた達までこのようにものわかりが悪いのか。外から人間の中に入って来るものはすべて人間を汚すことなぞありえない、ということがわからないのか。19それは人間の心の中に入ってくるのではなく、腹の中に入り、そして便所に出て行くだけだ、ということが」。(イエスは)すべての食べ物を清いとしていたのである。20また言った、「人間から出て来るものが人間を穢す。
マタイ15
15ペテロが答えて彼に言った、「この譬えを説明して下さい」。16彼は言った、「あなた方まで、まだものわかりが悪いのか。17「口の中に入って来るものはすべて、腹へと進んで行き、便所へと飛び出るだけだ、ということが分からないのか。18口から出て来るものは心から出て来るのであって、それが人間を穢すのである」。
17‐18aはマルコの編集句。
18b「外から人間の中に入って来るものはすべて人間を穢すことなぞありえない」という15のイエスのロギアの繰り返しは、穢れ問題に関する単独伝承であったものをマルコが組み込んだものであろう。
19a「それは人間の個々の中に入って来るのではなく」はマルコの編集句の可能性がある。
19b「(イエスは)すべての食べ物を清いとしていたのである」は、マルコの編集句。
20「人間から出て来るものが人間を穢す」のイエスのロギアも15の繰り返し。
18b‐20は、15のイエスのロギアと別バージョンの可能性がある。
マルコがイエスの言葉を付加して、再編集した可能性もある。
21‐22のイエスのロギアは18b‐20とは別伝承。
「外から人間の中に入って来るものはすべて人間を穢すことなぞありえない。腹の中に入り、そして便所に行くだけだ。人間から出て来るものが人間を穢す」という原伝承に、マルコが言葉を付加したり、他の別伝承と組み込んだりして、このイエス伝承を作り上げたものかもしれない。
マルコのこの個所は、イエスの「弟子たち」批判、つまりエルサレムの原始キリスト教団批判として語られている部分である。
マルコ15とマタイ11と同じく、マルコ18「外から人間の中に入って来るもの」に対してマタイ17「口の中に入って来るもの」。
マルコ17「外から人間の中に入って来るもの」とは、マルコ15と同じく、単に「食物」のことに限定しているのではなく、人間自身の行為の外にある自然界に存在するものを指している。
人間に「穢れ」をもたらすのは、人間自身の行為であり、人間の外にある自然が人間を汚すことなどありえない、という趣旨。
それに対し、マタイ17「口の中に入って来るもの」は、食物を指している。
マルコの文を解りやすくまとめてくれたのだろうが、おかげでマルコの趣旨とは異なるものとなっている。
マタイはマルコ18「外から人間の中に入って来るもの」を「口の中に入って来るもの」に変え、後半は削除し、マルコ19「それは人間の心の中に入ってくるのではなく」を削除した上で、後半だけを繋いだ。
その結果、食物は口から入って摂取される段階では穢れているものではなく、腹に入り消化され、排便され、便所に出ていくだけだ、という趣旨になった。
マルコ20「人間から出て来るものが人間を穢す」は、食物でなく、律法学者やパリサイ派の伝統を念頭に置いている。
「人間を穢す人間から出て来るもの」とは、「長老たちの伝承に固執する」ことであり、「自分たちの伝承に固執する」ことでもあることを示唆している。
「自分たちの伝承を確立するために、神の戒めを捨てる」ことを「人間から出て来るものが人間を穢す」と言っているのである。
コルバーン伝承に関しても「自分たちが伝承した伝承で、神の言葉を無効にしている」として「人間を穢す」ものであると批判しているのである。
4「ほかにも多くのことを受け継いで、固執している」、13「ほかにも似たようなことを多くやっている」というマルコのイエスの批判は、エルサレムから来た律法学者とパリサイ派に対する批判である。
しかし、「人間から出て来るものが人間を穢す」というイエスの言葉は、15節で、「みな聞いて理解するがよい」と語った「群衆」に対しても、20節で、ものわかりの悪い「イエスの弟子たち」に対しても語ったものである。
つまり、マルコのイエスは、エルサレムから来た律法学者とパリサイ派に対する批判を、エルサレムを活動の中心とする初期弟子集団のキリスト教会と重ねて、批判を展開しているのである。
律法学者とパリサイ派が「穢れや清め」としているユダヤ教の伝承と同じようなことをイエスの弟子と称するエルサレムのキリスト教会も同じように伝承しているのではないですか、と言っているのである。
マタイはマルコの構造を崩しているので、イエスはパリサイ派と律法学者だけを対象として、批判を展開していると読むことになる。
マタイの「口から出て来るもの」とは「言葉」のことであり、言葉は「心から出て来る」ものであるという趣旨にした。
「心の穢れ」が「人間の穢れ」になるのであるから、パリサイ派などのような「心の穢れ」に注意すべきである、という説教になったのである。
その「心の穢れ」とは19「すなわち、心から出て来るのは…」とマタイは解説を加えてくれたのである。
マタイは、最後に20「洗わない手で食べることが人間を穢すのではない」と付加している。
あくまでも、パリサイ派の穢れに関する律法解釈の問題と考えているからである。
だが、マルコには「洗わない手で食べる」ことに関する記述はない。
当然である。
マルコの批判は、「手を洗う」という穢れに関するユダヤ教の清め伝承の是非にあるのではない。
パリサイ派により「穢れ」と認定される方式で食事をしたとしても、「人間の中に入って」くる食べ物そのものが、人間自身を穢すことなどできるはずもないことである。
それゆえ、マルコは19b「(イエスは)すべての食べ物を清いとしていたのである」と付け加えたのである。
マルコのイエスの批判は、長老たちの伝承に固執することや自分たちの伝承や人間の伝承によって神の言葉を無効にしていることにあるのであり、「人間から出て来るものが人間を穢す」ことを批判しているのである。
マタイは、マルコの「弟子たち」批判を、単にパリサイ派的「心の穢れ」批判だけに矮小化させたのである。
マルコをマタイと整合させて理解しようとすると、マルコの「弟子たち」批判は隠れてしまうことになる。
多くのキリスト教会が、マタイを中心に福音書を解説するのは、ある意味当然なのであろう。
ほぼすべてのキリスト教が、イエスの教えを継承しているのは「弟子たち」であり、その「弟子たち」の教えを継承しているのが、自分たちのキリスト教会であると主張しているからである。
護教主義のキリスト信者にとって、「弟子たち」を批判している福音書が存在しているとは、微塵も考えないのであろう。
これも、聖書正典信仰のなせる業なのであろう。