マルコ7:14-20 <穢れについての論争>5

 

マルコ7

14そして再び群衆を呼びよせて、言った、「みな私の話を聞いて、理解するがよい15人間の外から人間の中に入ってきて、人間を穢すことのできるものなぞない。人間の中から出て来るものが人間を穢すものなのだ。16もしも聞く耳を持つ者がいるなら、聞くがよい」

 

17そして群衆を離れて家に入った時に、彼の弟子たちがこの譬えについて彼にたずねた。18そして彼らに言う、「あなた達までのようにものわかりが悪いのか。外から人間の中に入ってくるものはすべて人間を穢すことなぞありえない、ということがわからないのか。19それは人間の心の中に入ってくるのではなく、腹の中に入り、そして便所に出て行くだけだ、ということが」。(イエスは)すべての食べ物を清いとしていたのである。20また言った、「間から出て来るものが人間を穢す。

 

マタイ15

10そして群衆を呼びよせて、言った、「聞いて、理解するがよい11口の中に入って来るものが人間を穢すのではなく、口から出て来るものこそが人間を穢すものなのだ」。

 

12その時弟子たちが進み出て、彼に言う、「パリサイ派がこの言葉を聞いて躓いたのをご存知ですか」。13は答えて言った、「天の我が父がお植えにならなかった植物は、すべて根から抜かれるであろう。14彼らをほっておくがよい。彼らは道案内をする盲人である。盲人が盲人の道案内をすれば、どちらも溝に落ちることになる」。

 

15ペテロが答えて彼に言った、「この譬えを説明して下さい」。16彼は言った、「あなた方までまだものわかりが悪いのか。17口の中に入って来るものはすべて、腹へと進んで行き便所へと飛び出るだけだ、ということが分からないのか。18口から出て来るものは心から出て来るのであって、それが人間を穢すのである。

 

 

 

マルコ7:14「そして再び」に対し、マタイは単に「そして」。

マタイはマルコの「再び」を削除。

 

マルコの「再び」(palin)は、4:1の「再び」とは異なり、論理的には意味が通じる。

これまでも、「群衆」を相手にイエスが語る、教える、という場面を描いて来たからである。

 

 

4:1の「そして再び海辺で教えはじめた」の「再び」は、前段の続きではない。

前段の場所は、「家」(3:20)であり、海辺での話ではない。

 

エルサレムから下って来た律法学者たちとイエスの家族を交えてのベルゼブブ論争話である。

この「再び」とは、前段の続きとしての「再び」という意味ではなく、イエスは常日頃から、「群衆」に教えることを行なっていた、という趣旨で「再び」という言葉を使っていると思われる。

 

4章と7章の編集構成の類似からしても、7:14の「再び」は4:1の「再び」と同じく、論理的な意味ではなく、マルコの口癖のようなもので、「例によってまた」という趣旨で「再び」(palin)を用いたのであろう。

 

マルコは28回。マタイは17回。ルカは福音書で3回、行伝でも5回。ヨハネは43回。真正パウロ28回。疑似パウロは0。

 

母語をアラム語とする著者が多く用いている。

ヘブライ語アラム語で「再び」('Od)を軽く多様する影響が強く出ている現象であろうと田川訳は解説している。

 

1-13まで論争話は、「イエス」vs「律法学者+パリサイ派たち」という構図で、論題を「弟子たちの行動」とする論争である。

 

2「知って」の読みを文字通りの意味に「見て」と読むと、「イエス+弟子たち」vs「律法学者+パリサイ派たち」という構図に読むことも可能になる。

 

おそらく、「見て」の訳とするのは、イエス+弟子たちが常に行動を共にしていた、というキリスト教ドグマを読み込みたいからであろう。

 

しかし、正文批判また歴史的実態からして、「知って」の意味であろうことは先に述べた。

 

つまり、マルコにおいて、実際の場面に「弟子たち」が登場するのは、17節以降となる。

「群衆」を離れてからが「弟子たち」とイエスとの場面となる。

 

「弟子たち」が「群衆」と共にいたとしても、「群衆」はイエスの話を「聞いて、理解する」対象となっているのに対し、イエスの譬に関して「弟子たち」は「ものわかりが悪い」者たちとして登場するのである。

 

4章の<種まく者の譬とその解説>と同じ構造である。

イエスのもとに集った非常に多くの「群衆」を譬話でいろいろ教え、「聞く耳を持つ者は聞くがよい」と語り、譬の理解を「弟子たち」に与えられた秘義とはしていない。

 

むしろ「譬えを理解しない」者であり、「それでどうしてすべての譬えを知ることができよう」とイエスに叱責される立場として登場する。

 

「弟子たち」はマルコのイエスからは批判の対象となっているのである。

4章でも7章でも同じである。

 

マタイ12‐14「その時、弟子たちが進み出て…落ちることになる」というイエスの言葉は、マルコには登場しない。

 

おそらく、<穢れと清めの論争>とは全く関係のない独立伝承として伝えられていたイエスのロギオンをマタイが挿入したのであろう。

 

ルカは「盲目の案内人」というロギオンを、「人を裁くな」という論議の後の6:39に組み込んでいる。

 

実際にイエスが語ったものか、当時流布していた格言的な言葉をイエスのものとされて伝承されたのかは不明。

 

Q資料に収められていたものを、マタイがマルコとは無関係に、この個所に挿入したもの。

 

 

 

マルコ15「人間の外から人間の中に入ってきて…人間の中から出て来るものが…」。

マタイ11は「口の中に入って来るものが…口から出て来るものこそが…」。

 

マタイの「口の中に入って来るもの」とは食物のこと。

「口からでて来るもの」とは言葉のこと。

 

しかし、マルコの「人間の外から人間の中に入る」ものとは食物だけを意識しているのではない。「人間の中から出て来るもの」も言葉だけを意識しているのではない。

 

マタイは、マルコを読んでいるので「人間の中から出て来るもの」とは、21「心から出て来る悪しき考え」という意識があるので「言葉」と解釈して、「口から出て来るものこそが」と強調して、書き変えたのであろう。

 

しかし、心を源として21「口から出るもの」とは、「言葉」のことになるが、マルコの「人間の中から出て来るもの」とは人が発する「言葉」に限定されない。

 

マルコのイエスが問題にしているのは、「食べ物」に端を発しているが、パリサイ派が「長老たちの伝承に固執」していることであり、単なる「人間の戒め」を神への礼拝として教え、「穢れと清め」の決定権を握っていることにある。

 

つまり、マタイのイエスが解説するような心から生じる「言葉」の問題ではなく、「人間が作り出すあらゆる悪しきもの」を指している。

 

人間を穢すのは単に口から入る食べ物ではない。

 

人間に対して悪をなすのは、人間自身の行為であって、人間の外にある自然界に存在するものを食べたとしても、その存在自体が、人間を穢すことなどありえない、とマルコのイエスは主張しているのである。

 

それゆえ、マルコは19bで「(イエスは)すべての食べ物を清いとしていたのである」と付け加えたのである。

 

NWTは原文の定冠詞付き単数の「人間」(tou anthrOpou)を「その人」と訳しているが、これでは「洗っていない手」で食物を食べた「その人」だけを問題にしているという趣旨になる。

 

15「人から出て来るものが人を汚す」という意味も、その人が摂取した食物の排泄物が汚物となる、という問題に矮小化されてしまう。

 

イエスが問題にしているのは、単に洗っていない手で、あるいはパリサイ派の規定では穢れとされた食物を食べることが「穢れ」となることではない。

 

「人間の戒め」に過ぎない「穢れと清め」の規則を「神の戒め」とすること自体が人間に対する「穢れ」であるいうことにある。

 

この定冠詞は、限定された特定の「人」を指すのではなく、一般的な真理を言う時の定冠詞である。

 

ある特定の人々がというのではなく、人間という神でもない存在から「神の戒め」という形で出て来るものが、世の中の人間という存在を穢すのだ、ということである。

 

その人が食べたものが、その人個人の中から出てきて、その人自身を穢す、という意味ではない。

 

 

本来なら、16「もしも聞く耳を持つ者がいるなら、聞くがよい」というイエスの言葉が続いていたはずである。

 

NWTは削除しているが、WT信者のJWに、果たして「聞く耳を持つ者がいる」のだろうか。

 

ちなみにマルコ7:16を本文に入れているのは、

 

新共同訳 「(底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい」

前田訳  〈「聞く耳あるものは聞け」〉

口語訳  〈聞く耳のある者は聞くがよい〉

 

その他は、節はあるものの、無し、としているか、節を飛ばしている。

節そのものには番号が振られているのであるから、16世紀以前、それ以後も底本がテクストゥス・レセプトゥスから19世紀にネストレに変わるまでは、本文に入っていたことになる。

 

共観福音書の他のいくつかの個所で、後世の写本が原文にはない「聞く耳ある者は聞くべし」という句を付加されている。(マタイ25:29、ルカ12:21、21:4)

 

この節が削除されたのは、ここもその一つと判断されたからである。

 

しかし、マタイやルカに「聞く耳…」の句が付加されているのは、ごく少数の後世の写本だけである。

 

それに対し、マルコのこの個所では、シナイ写本やバチカン写本以外の重要な大文字写本も、この句がある読みを支持している。

 

後世の挿入ではマタイの口癖に従って「聞く耳ある者は聞くべし」としているが、マルコのこの個所とは言いまわしが異なっている。

 

 

マタイは「(耳を)持つ」という分詞に定冠詞を付けて、「耳を持つ者」(ho echOn Ota)の意味で用いている。

 

それに対しマルコはそういう言い方はしていない。

 

4:9では「聞く耳を持っているところの者は聞くがよい」と「持っているところの者」(hOs echei Ota)と関係代名詞を使い主語としている。

 

4:23では「もしも誰かが聞く耳を持っているなら」 (ei tis echei Ota akouein)と仮定法の接続詞を用いて、「聞くがよい」(akouetO)と述べている。

 

ここは、4:23と全く同じ言い方である。

 

 

それに加え、マタイ25:29等の後世の写本の挿入は、その前に必ず「こう語った上で、彼は宣言した」という句を置いている。

 

それに対し、マルコのこの個所では、そのような前置きの編集句は付いていない。

 

マルコが4章と7章を同じ構造で意図的に編集していることからしても、後代の付加ではなく、原文であった、とするのが妥当と思われる。

 

「もしも聞く耳を持つ者がいるなら、聞くがよい」という言葉は、マルコのイエスが「群衆」に対して、つまり、誰であっても、聞く耳を持つ者がいるなら、聞いて理解するように促し、語った言葉であろう。

 

 

マルコ16を後代の付加として削るのは、マタイを主体として福音書を解釈したい、護教主義が働いているのだろう。

 

マルコのイエスが語る、弟子たち批判に聞く耳を持つな、と語っているようである。

 

マタイのイエスが語る「盲人の道案内人」がマタイのイエスであるなら、どちらも溝に落ちることになるのではないだろうか。

 

JWをはじめとするマタイのイエスをイエスの真の姿と信じるキリスト信者は、溝に落ちないよう御用心くださいませ。

 

 

マルコのイエスは、「弟子たち」に対し、「群衆」とは異なる対応をする。

 

17「群衆」を離れて、「家に入っている弟子たち」に対し、「あなた達までこのようにものわかりが悪いのか」と批判されている。

 

「群衆」からは「離れて」いる存在として、イエスと一緒に家に入っている「弟子たち」たちに対するイエスの言葉である。

 

マルコは、イエスの家に居ると主張しているエルサレムの原始キリスト教団を意識しているのだろう。

 

この「あなた達まで」(kai humeis)という言い方は、非常に強調された表現。

 

普通は動詞の二人称複数形だけで意味は通じるのだが、わざわざ二人称複数形の代名詞を置いているだけでなく、kaiという語を加えてさらに強調している。

 

「ものわかりが悪い」(asunetos)は、否定辞a-+synetos。

形容詞の「理解ある」の否定形、「理解に欠けている」という意味に使われる。

 

お前さんたちは本当にどこまでイエスの言うことを理解できないものわかりが悪い連中なのだ」という「弟子たち」に対するマルコの感情が込められているのだろう。

 

 

 

マタイはマルコの「弟子たち」を「ペテロ」に変えて、「あなた達まで、まだものわかりが悪いのか」。

 

「あなた達までものわかりが悪いのか」(kai humeis asunetoi este)は、マルコをそのまま写している。

 

ただし、マルコの「このように」(hOutes)という副詞は、まだ」(akmEn)字義的には「到達点ではない」に変えている。

 

マルコの「弟子批判」を、理解の完全否定とまでではないと考えたのか、「メシアの秘密」宜しく、弟子たちはまだイエスがメシアであることを完全に理解する時には来ていないというドグマと矛盾しないと考えたのか。

 

あるいは、「弟子批判」の前にパリサイ派が盲目の案内人であるという伝承を付加したので、「あなた達まで」という批判の矛先がパリサイ派に向かっていると読めると判断したのか。

 

複合的な要素が考えられるが、おそらく、マタイはメシアの秘密との整合性と矛盾しないと考えたのが主たる要因であろう。